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宿の玄関で荷物を抱えていた私に、日帰りの入浴客が驚愕しながら問うてきた。――え、ここに? ここに泊まるんですか!
土産を求めて、行きしなに立ち寄ったプリンスホテルは大変な盛況だったが、自炊湯治宿は私と部屋に大きな蟻がいるだけの、事実上の貸し切りだった。
 

屈指の療養泉といえど、時の流れにその効能は立たず。辛うじて建っていた宿の内側は烈しく斜めに傾いており、数時間いや数分または数秒後に崩落し、塵と化しても何らおかしくはなかったが、それとて温泉の泉質には何ら影響しない。
標高千八百米の高所で渾々と湧き出る素晴らしい湯に、私はいつまでも火照り、堪らず部屋の窓を全開にと試みるも、傾いた窓枠は本来の働きを忘れたかのように動かなかった。よく見てみると、傾きに生じた隙間を埋めるべく、ガムテープで処されていたのだから、なるほど開くはずがない。ガタガタする襖にも、床の縁にもテープが貼れており、破れた障子も衣紋掛けも、見渡せばすべてガムテープに処されている。
もはや私の自由まで処されているように感じて息苦しくなり、床の縁のテープを少し剥がすと、また蟻が出てきたではないか――。
 

部屋の中で寂しく蟻と戯れながら、私は思った。残念だけれども、次はプリンスホテルに泊まろうと。
			 
	
			
				
			
	
	
	
		
山は厳しい 小屋も狭くて 暗くて 寒くても 悲しくはならない
			 
	
			
				
			
	
	
	
		
インターネットで予約? そんなの出来ませんよ。
電話ですよ、電話で頼み込むんですよ。どうしても泊まりたいんですって。
だから素晴らしいもてなしでしたよ。敷居なんか高くないですよ。
			 
	
			
				
			
	
	
	
		
泉源にほど近い山小屋の温泉で生き返った。
喧噪が届かない贅沢な静寂の中でつい長湯。
開け放たれた窓から昇る湯煙を追いかけると、
青く澄んだ空がどこまでも高くて。
温泉は好きですか?
			 
	
			
				
			
	
	
	
		
ダイナマイトで発破をかけられて、渓谷は消えた。
空気が震えたというその工事音が、住民に突き刺さったという。
「出てゆけ、お前たち出てゆけ」
まるで脅迫されているようだった。
電車はもう渓谷を省みず、トンネルの中をただ軽快に走り抜ける。
それで私たちは一体何を手に入れたのだろう。