Toji hotel is tilted

宿の玄関で荷物を抱えていた私に、日帰りの入浴客が驚愕しながら問うてきた。――え、ここに? ここに泊まるんですか!
土産を求めて、行きしなに立ち寄ったプリンスホテルは大変な盛況だったが、自炊湯治宿は私と部屋に大きな蟻がいるだけの、事実上の貸し切りだった。

 

屈指の療養泉といえど、時の流れにその効能は立たず。辛うじて建っていた宿の内側は烈しく斜めに傾いており、数時間いや数分または数秒後に崩落し、塵と化しても何らおかしくはなかったが、それとて温泉の泉質には何ら影響しない。
標高千八百米の高所で渾々と湧き出る素晴らしい湯に、私はいつまでも火照り、堪らず部屋の窓を全開にと試みるも、傾いた窓枠は本来の働きを忘れたかのように動かなかった。よく見てみると、傾きに生じた隙間を埋めるべく、ガムテープで処されていたのだから、なるほど開くはずがない。ガタガタする襖にも、床の縁にもテープが貼れており、破れた障子も衣紋掛けも、見渡せばすべてガムテープに処されている。
もはや私の自由まで処されているように感じて息苦しくなり、床の縁のテープを少し剥がすと、また蟻が出てきたではないか――。

 

部屋の中で寂しく蟻と戯れながら、私は思った。残念だけれども、次はプリンスホテルに泊まろうと。