知と痴の違い

鴨の釜飯が美味しい市内の割烹で、時季が来たら鴨鍋の会をやろうと企図していたのだが、猟師の高齢化で、捕れてみないと提供出来ない、というか猟に出られるかも分からない。だので、釜飯の予約でよろしいでしょうか、と言われても

結局、沖積平野を横断する列車に揺られて、猟場のある田舎町まで出張ってきたのだが、今度は「本場」の称号が冠されて、割高にして小ぶりの鴨肉が鍋底に侍っていただけの精鋭鍋で、誰かが曰わく、若干油っぽい「本場の野菜鍋」であったと。今更に釜飯を懐かしみ、生唾を呑み込んだ。そういえば、〆の雑炊とかもなかった。

上州で催されている「狂言を観る会」は、絶対外せない鑑賞会となって久しい。この日の演目、狂言「枕物狂」は若い娘に恋をしてしまった老人の話で、いきなり枕を持って現れたから客席はギョッとしたが、常々「狂言は事件にしない」と東次郎師が説いてくれているように、そこを読み間違えてはまったくつまらなくなる。

上州は近くないが、来月もまた桐生で別会がある。能狂言の地方開催は鑑賞券が破格というだけでなく、解説やお話なんかが普段より優しいので、それもまた魅力。初心者や友人などを誘うに打って付けである。

友人といえば痴れ者ばかりだが、中には、どうしてそんなにつまらない、とそういう輩も若干名存在する。特に、他者への憧れをも失いつつあるような人間を、来月の別会に誘ってみたのだが、面倒くさいとも、つまらなそうだとも言われてしまった。

色恋だけでなく他者への憧れというのは、まさに生きる歓びの一つで、その歓びを欠いては生きづらいと思うのだが、「へっ、四十過ぎの女なんて」などという、大変な妄言が先の美酒佳肴の会で飛び出してしまった。

少なからず民意であると、政治家のように振るったのだから、度し難い。私は原発反対と同じ熱量で反論した。「みみより!解説」を欠かさず観ているのは、ミミズクのみみちゃんがカワイイからではないと。

知と痴の違い、その埒外にいるなどは論外だが、この違いをはっきりと決めつけるのは、つまらない人間のすることだ。面白さとは無駄なことにある。断言してもいい。無駄なことを本気で楽しむ人間を面白いという。

痴れ者が持つ、おかしみの知識に憧れ、自らもそういう話が出来る、面白い人間になりたい。そういう人間に私はなりたいと、どうして思わないのだろうか。

そういう理由で、今日は由利高原鉄道に乗っていたが、みぞれまじりの曇天冬空に面白さが揺らぐ。とてもゆっくり、ガタンゴトンと走るローカル私鉄線の気動車より、それが大きく揺らいでいく。

今や珍しいタブレット交換があり、絣半纏姿の秋田おばこがアテンダントとして乗車するも、鳥海山麓線で鳥海山が見えないとは何ならむ。

何もない駅舎で列車は静かに停まり、ランドセルを背負った賑やかな一団を乗せた。熊鈴をガシャガシャ鳴らしているのがイマドキであると振り向けば、哀しみだけを浮かべていた双眸が奪われた。さすがは美人の本場である。小学生にして、はや美しい。

盲恋の窓を放つと、私の車窓は一変した。訳の分からない、面倒くさいことを言い出したのは、小学生に懸想したことへの動揺を隠せないからだろう。枕ものにや狂うらん・・・・・・。