最近、鉄道にばかり乗っているので、温泉に行っていないなーと手帳を開くも、二週間前に会津の早戸温泉を浴びていた。まあ、それはそれとして、温泉旅行へ。小浜線、舞鶴線にも乗りたいので、久しぶりに城崎温泉でも目指そうかと捲った指南書が古い方の日本百名湯で、加賀温泉郷は粟津温泉の項を開いていた。
粟津温泉は、霊峰白山を開山した泰澄大師が白山大権現からお告げを受けて開湯し、その歴史を今に伝える宿は、大師から湯守を命ぜられること四十六代も続いているという。苔むした日本庭園のその凜とした美しさには老舗の品格があり、なになに、到着するとまず茶室で、抹茶のもてなしを受けるのが習わしであると。

旧北陸本線の粟津駅に送迎車が待っていた。「マリーさん?」なんとなく、それっぽいが、私はマリーさんではない。ではないが、今夜宿泊する者だと伝えると、サインペンで雑に書かれた私の名の予約札が「これか?」と掲げられた。ああ、良かった、予約は取れていると安堵したものの、背負っていた鞄にその札を背負ったままで括り付けられた。名札を付けられた子ども、というよりは荷物になって、私は宿へと運ばれていった。
最初から何かがおかしかった。文化財の宿が、インターネット宿泊予約サイトで破格になっていたのだ。おまけにクーポンまで利用出来たから、私のようなチンケな温泉ファンでも宿泊が叶った。
「マリーさんですか?」帳場も外国の方で、今や何の違和感もなく、むしろ世界にその名を轟かす日本の名旅館として、外国人宿泊客であると思われるマリーさんをお迎えするにあたり、多言語を駆使して、グローバルにもてなす必要があるだろうって、仲居は老婆なる日本人だった。
またこの人が、相当年季の入ったベテランで、ちょっと様子がおかしかった。執拗に、荷物だけは泥棒のように持ちたがるのだが(特に札が付けられた私の鞄を持つと言って聞かなかった)、部屋の鍵は客に開けさせた。

部屋の鍵を自分で開けて、自ずから部屋に通されると、私はまず床の間に掛けられた軸を観て、上座に座った。一服入れてから、その設えを褒めようとするも、あれ、お茶は? というか、茶室でお抹茶じゃないの? いつまで三つ指をついているのかと見やるも、仲居の老婆は踏込に座るでもなく佇立したままで、洗面台を指差していた。
「お湯は自分で汲んで、自分で沸かして」DIY精神に溢れたパンクな姿勢に衝撃が走ると同時に、お抹茶どころではない現実を突き付けられた。忙しい日常を忘れるべく訪れた、温泉宿の極上ホスピタリティの中で、突き付けられた。自分でやれ! ピンっと中指を押っ立てているかと思いきや、佇んだまま、老婆なる仲居は眸を滲ませていた。「そういうことになったんです! もう、私もどうしていいのか」わーっと言い捨てて、戸を開けっ放しにして出ていった。
大浴場の入口にある飲泉所に、もはや源泉は流れていなかった。沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の理をあらわす。屋外に能舞台が設けられていたが、それも枯葉の中に埋められていた。北陸最古の名旅館は、数年前に特別清算開始を受けたらしい。
食事の給仕も外国の方だったが、皆難しい料理名をしっかりと覚えて、甲斐甲斐しくもてなしてくれた。
「研修生サバ」という名札を付けた女性はミャンマーの方で、来日して一年と言っていたが、日本語は完璧だった。自国で勉強を重ねてきた努力家は、大変な美人でもあった。おかげで翌日は、焼き鯖を食べては彼女を、越前蕎麦を食べてもサバちゃんに恋慕することと相成った。
利用者を打っ叩くのは日本人の職員で、しっかり宗教を持っている人に介護されるとしたら、どれだけ安心出来るか分からない。かつての老舗、日本の名旅館、それはそれとして、今こうして手頃な価格で堪能出来るのは、彼女らの働きによるものである。温泉ファンとして、この上なく有り難いことである。
必死に喫茶の作法を覚えてきたことは、杞憂であったが。
(末尾の写真は鈴木大拙館にて)

