Speak ill of a dead fish

Speak ill of a dead fish

金科玉条はどこにある
屍に向かって疑似餌を放っていた
何も見えていなかったことに愕然とした
大切なことは見えないところにあると
知っていたはずなのに
Divided we fall

Divided we fall

まるで締め付けられるようにして殺されたんだ
吹き抜ける残像が黄昏れることもなくなり
聖域で銀を帯びるはずだった暁は隠された
どこからともなく現れた 小さな使いに冷たくあしらわれた
釣れっこないよ だってさ
Boundary line of the water

Boundary line of the water

「でも、いちどでいいから岩魚の刺身が食べてみたいんですよ」
源流域での釣行記をまとめた書籍の中で、ボウズの筆者の目の前でいとも簡単に数尾の魚を釣り上げた老齢のフライフィッシャーが、同宿した山小屋での夕食時にそう話したとあった。筆者の中に芽生えたのは好感と共に、それが叶わないことは不幸なのでは?という思い。キャッチアンドリリースを前提とするフライフィッシングを前にしても、真摯に魚と向き合えば「食すること」は道理であると。いかなる釣法を用いたとしても、その道理は同じではないのか——
スポーツフィッシングなどと括られれば、キャッチアンドリリースは美学とも捉えられてしまうが、そもそも、そんなスポーツなどあるはずがない。釣り人は無秩序に自然に分け入る暴漢でしかなく、それによって無理矢理に水の中から引き揚げられた命の駆け引きをどうしてスポーツと呼べるのか。
釣り竿に結ばれた釣り糸を手繰ることでしか示せない、なんとも偏った魚への情念がキャッチアンドリリースを釣り人の最後の手段とする。食べたくても食べられない、老齢のフライフィッシャーのその思いにこそ、釣り人としての気概があるのではないか。
私たちは何者なのか。猟師でもなければ登山者でもない。不幸なまでに、釣り人なのだから。