Don’t be mad

Don’t be mad

夕マズメに、やっと出た! あまりにも釣れないので、釣り上げると同時に釣り人も崩れ落ちたが、規則正しい彼らからしたら、当然だろう。食事の時間なのだからこのやろう。・・・・・・ごもっともです。早く流れに戻せこのやろう。・・・・・・今、鉤外しますので。
Big one

Big one

大物と出逢ってしまったら、帰りの道が怖い。家族は息災か、友人は遭難していないかと気が気でない。いやまてよ、あそこでごみを拾ったからだとか、色々思ってみるも、やっぱり怖くなってくる。
Speak ill of a dead fish

Speak ill of a dead fish

金科玉条はどこにある
屍に向かって疑似餌を放っていた
何も見えていなかったことに愕然とした
大切なことは見えないところにあると
知っていたはずなのに
Divided we fall

Divided we fall

締め付けられるようにして殺されたんだ
どこからともなく現れた 小さな使いに冷たくあしらわれた
釣れっこないよ だってさ
Boundary line of the water

Boundary line of the water

「でも、いちどでいいから岩魚の刺身が食べてみたいんですよ」

源流域での釣行記をまとめた本の中で、ボウズの筆者の目の前でいとも簡単に魚を釣り上げた老齢のフライフィッシャーが、同宿した山小屋での夕食時にそう話したとあった。筆者の中に芽生えたのは好感と共に、それが叶わないことは不幸なのではという思いだった。キャッチアンドリリースを前提とするフライフィッシングを前にしても、真摯に魚と向き合えば「食すること」は道理であると。いかなる釣法を用いたとしても、その道理は同じではないのかと。

スポーツフィッシングなどと括られれば、キャッチアンドリリースは美学と称されるが、そもそも、そんなスポーツなどあるはずがない。釣り人は無秩序に自然に分け入る暴漢でしかなく、無理矢理に水の中から引きずり出される命の駆け引きを、どうしてスポーツなどと呼べるのか。
釣り竿に結ばれた釣り糸を手繰ることでしか示せない、なんとも偏った魚への情念が、キャッチアンドリリースを釣り人の最後の手段とする。食べたくても食べられない、老齢のフライフィッシャーのその思いにこそ、釣り人としての気概がある。

私たちは何者なのか。猟師でもなければ登山者でもない。不幸なまでに、釣り人なのだから。