波間にたゆたう

初めて訪れる土地では、安直であるが、観光協会などの情報を頼りにするのだが、凪いでいた港町に一際小粋な暖簾がたゆたっていた。情報の海に溺れた現代人が「え、なに? 海外で受賞とな!」しかもお得なランチもあるとの不確かな伝聞に呼び込まれるまま、潜った先は深淵のごとき、カウンター席のみの店だった。女将から手渡された品書きにはラの字どころか「おまかせ」としか記されていなかった。

軽く頭を下げて大将が奥から出てきた。齢は知命ほどで寡黙、客におもねるような素振りは一切見せず、俎上の魚に当てる万能包丁を光らせている。私とて不惑、さすればここで眼を離さでおくべきか。真っ昼間から大枚を叩くのだから、魅させて貰おうではないか、その仕事。

おもむろに取り出された蝦蛄の歪な殻が、不慣れな大将の親指に身ごと潰されてゆく。失敗――、と見せかけて、一度私に視線を寄越してから手の中に誘導すると、ぎゅっと握りつぶした。戸惑う視線を解放するようにして、手品師の指が一本ずつ解かれてゆくと蝦蛄は、小さな球になっていただけだった。

仕切り直しとばかりに、烏賊の皮を指でつまんで剥こうとするのだが、不器用なのか、上手くつまめない。骨抜きを使ってようやくつまんだのだが、力が一点に集中するもんだから、途中で破れる。つまんでは破れるのを繰り返した何度目かで、まるで子どもが投げ出したようにして諦めてしまった。

額に冷や汗を滲ませて、色を失ってゆく大将を見かねて「今日は暑いですね」と気遣うも、間髪容れずに「え、暑いんですか?」平然と客の顔を覗き込むのだからコイツ。何かスゲえ下手くそのくせに、へつらうどころか開き直ったようで、中途半端に皮が残ったままの烏賊を、妙なポーズをつけながら握りだした。最後に煮切りではない何かを塗って供されたその味わいが、やけに酸っぱく、酢飯のそれとはまた違う。違うというか、シャリ硬っ! そして口の中でぼろぼろと崩れてゆく握りの弱さ、その拙さ・・・・・・。

受賞歴が詐称というよりも、和食なのだからその文化圏で評価されなければ不確かだろう。そんなことにも気付けないほど情報の波間にたゆたい、その海に溺れている。だけならまだしも、お腹まで下ってきたではないか――

周章てて駆け込んだ公共施設は震災の伝承館だった。丁度、月命日の日であり、船舶の煙りが水平線に揺曳していた。地震も津波も躍動する地球のサイクル。抗うことなかれ、命の限り逃げるべし。腹痛の波が治まると、何だかお腹が空いてきた。生かされていることを大変ありがたく思う。