傷だらけの道具

今更、開高健を掘り下げて一体誰が歓ぶというのだろうか、私以外に――。と、前号よりも今号のムック本は特集が多くて、なんだよ、面白いじゃないか、月末の催しにも行きたいじゃないかと嘆息しながら、特に難しい小説はさて置いても、釣行記や食の随筆、それから戦争ルポルタージュなどの面白さは比類するものを知らない。

ベトナムの前線でも、現地の住民が「雷魚のポカン釣り」に興じる姿が描かれており、水路で繁茂する水草が青々と彩る水面の輝き、その水面下で躍動するあの魚の強大な力を一本ののべ竿で受け止め、抑え、そして対峙する姿は、まさに血湧き肉躍る。釣り人が孕んでいる悲しい性をそのまま訴え、自然に、釣り場に、そして魚に介抱されてようやく昇華するという臨場感は、体験者(釣り人)だから描ける文章だ。

改めてその輝ける言葉の中に釣り糸を垂れると、ロッド(釣り竿)とリール(糸巻き)で釣る現在は、随分と楽に魚を釣っているのではないか。だから、その歓びも半減してしまっているのではなかろうか。「リールを使用した釣り竿での釣りを禁止する」という、ちょっと訳の分からない規則が掲げられた湖沼があるのだが、その意味、すなわち自分なりの意味を識ることが出来るかもしれないと、今まさにのべ竿に釣り上げられんとしていた。

(確かに、かつて細山長司師がキングサーモンを釣った「最強の本流竿」などは、もはや武士の「刀」のようであって、刀剣博物館に納めても遜色なく光り輝くと思われる)

とまあ、半世紀近く前に製造されたスエーデン製のリールは本当に堅牢で、時を経た今も道具における信用をまったく失わないどころか、以前にも増して信頼を集めるというのだから素晴らしい。しかし、オールドタックル云々と題された今号でも、復刻という名の新品が堂々と広告されていた。復刻といっても機構はまったく違う現行のそれで、そんな外見だけの商品に一体誰が輝きを見出すというのだろうか。

せっかく車体は古いのにホイールは現行の新品で、おまけにピカピカというのでは理解が及ばない。時代遅れのカスタムカーが、なにゆえカッコイイのか。ベースが大衆車や商業車であるからの低グレード、汎用パーツもチープでボロだが、それでも黄色いワーゲンが最新式のポルシェを追い抜いてゆく。そこに叛骨を見出せるからだ。

傷の割に機構がとてもしっかりしていると専門店の御墨付、私の5000番の俗称ストライパーは、回転よし、魚をかけて巻き取りよし。なにより使用による「傷」こそが、道具として最高に愛おしく、まさに用の美に溢れている。今朝のいい仕事を労って、グラスを片手にリールを労う私が開高さんのように映るのも、ビンテージのメッツラーの眼鏡をかけているからだろう。

まあこれが、似合わないのだけれども(というか阿呆に見える)。もっと太らねばならぬというのだな、たくさん読んで。