津軽路を行く

「誰が五能線で来いって言った?」えー、奥羽本線で来いってか「新幹線だよ!」。俺はそんなつまらない人間ではないと突っぱねて、津軽。蕩々たる北上川と壮大な南部片富士を横目に、盛岡から一度秋田に出て五能線に乗りかえれば、嗚呼。十三湖を満たす岩木川の先に津軽富士。名山に名川あり、訳もなく見入ってしまう大河の流れと剛毅な山の佇まいが、西方浄土より最も遠い地で、今まさに春を迎えているというのだから、ああんもう! やはり東北は最高である。

東下りを終えて北に移ってきたのだが、この心の平穏は一体何かしらん。釣りに登山に温泉にと、既に発狂しそうな高まりを抑えるも、終点まで五時間半の「快速リゾートしらかみ号」が快適で、ああんもう! もはや全席グリーン車のそれではあるまいか!

斜陽館と津軽鉄道を目当てに五所川原を訪れたことはあったが、「立佞武多」を見たことがなかった。莫迦だった。高さ二十メートル重さ十九トンという破格の大きさに圧倒され、その大迫力を囃し立てる笛に太鼓、鉦の音に扇動された掛け声の録音録画も琴線に触れるものがあった。厳しい冬の鬱憤を爆発させるような力強い東北の夏祭りが、ハレとケ、陰と陽、あざなえる縄のように禍福を受容して生きてきた津軽人の、いや日本人の本来を再発見させる。

津軽鉄道はオンボロだが、立佞武多を動かすために町の電線を埋設させたという「じょっぱり精神」。それを遺憾なく発揮して故郷に錦を飾った尊富士の快挙に、町の昂奮は未だ覚めやらぬようだった。次のねぷたは、日本武尊で決まりだね。

 

三内丸山遺跡から発掘された文化と生活は、驚くほど豊かだった。一家に一軒の竪穴住居、集会所と思しき大型の竪穴建物などが整然と並び、秩序ある村落を形成していただけでなく、狩猟採集の縄文人は鮑や雲丹まで食していたという。

盛土の中から出土した翡翠が糸魚川産だと聞いて、また驚いた。先日訪れた常陸国の博物館でも同時代の埋葬方法が解説されていたが、三内丸山でも大方同じであることを鑑みると、精神性にも影響を与えるような交流や交易が盛んにあったのではないか。豊かであるから平和であり、何より友好的でなければ、伝わるものも伝わらない。この遺跡を代表する大型の掘立柱建物の用途は、やはり灯台のようなものであって、訪れる人を歓待していたのではなかろうか。

そんな空想を描いた空に、八甲田連峰が浮かび上がっていた。

 

弘前の文学館で開催されていた企画展「紀行文学 青森県の名湯」。もちろん、宿泊先である黒石温泉郷を取り上げている。江戸時代の諸国温泉功能鑑にも記された温泉郷は、共同湯の周りに客舎が並ぶ温湯温泉で知られているが、落合、そして対岸の板留へ上っていくと、旅館と民宿が数件あるだけの温泉場になった。

温泉場を巻くように流れ下り岩木川となる浅瀬石川に、かつて鱒の遡上を止めたとされる急流はなく、湧き出でる湯を板でせき留めたことに由来する板留温泉の、文人たちを癒やした川岸の共同湯も今はない。渓間の美しさはダムの衝立に温泉情緒ごと隠されたが、それでも東北の温泉に共通する、喧噪の届かない閑かさをせき留めていた。

風呂上がりに読書をしていると、どこからともなく啼き声が聞こえてきた。民宿には飼い猫がいて、少しだけ戸を開けておくと、部屋に入ってきてくれることもあるらしい。本を閉じ、戸を開けてドキドキしながら待っていると、棚引くような紫煙が侵入してきたではないか。老齢の宿泊客が灰皿のある廊下で、悪戯な輪っかを作っては次々と吐き出していた。ああんもう!

出立の朝、嬉しいことに飼い猫が部屋まで挨拶をしにきてくれた。恥ずかしそうに小さく啼いて、私を引き留めてくれているのだろうか。朴訥とした東北の旅情を豊かに纏った私は、もはやどこから見ても旅行者だった。