問われていることに

地域区民センターが主催する会に、区民ではないのに寄せてもらう。そも高齢者に向けた事業で、しかも応募多数につき抽選となっていたので尚更申し訳なく思いながらも、憧れだった杉並能楽堂への道程は足取り軽く。まあ本当に住宅街の中にあるのだなと感慨深く、ぐるり一周すれば、裏口で紫煙を燻らす能楽師の姿、などというのも普段では見られない光景だ。

番組は狂言「船渡聟」と「悪太郎」の二曲と、最後に東次郎師のお話。山本家の稽古場、まさに研鑽の場で実際に観る狂言の面白いことといったら筆舌に、とは大袈裟ではなく、やはり慣れている舞台だからだろう。

狂言は「人間とはなにか」を、笑いに潜む共感を糸口にして問いかける心理劇。虚栄や嫉妬などによって出来た心の隙間を突かれた人間が滑稽に描き出されるが、だからといって糾弾しない。それが人間だと、包摂するような優しさは人間賛美。悪いところも失敗も他人事ではなく、常に自分事として捉えられたら、笑って許すことができるのではないか。

昔も今も変わらない、普遍的な人間への問いかけがある。ネット検索や人工知能によって明確な答えは出されるかもしれないが、そこに問いはない。だから問われていることに気付けない。気付けなければ、変われないのだ。