その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。嗚呼なんという楽しい生活でしょう。
『アイヌ神謡集』の序文を思い起こした三月は、十一日の浜通りにて。
時間があったので相馬と広野の山に登ってみると、それぞれの火力発電所が望めた。二つの原発を挟んでなお、これでもかと言わんばかりに電気を拵えていた。
「おらが村が首都圏を発展させている」と、ダム湖で発電された電力を、おらが村の人が自慢気に語っているのを読んだか聞いたりしたが、その湖畔を鈍い速度で伝って行く列車は電気式ではなく、ディーゼル車だった。
何も無い、豊かな土地と人間を巻き込みながら、ダム開発に原発という諸悪の根源が財源となる。だが産業はかりそめで、小鳥の歌のようには続かない。
平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし――
山の蕗や蓬は小鳥の歌に呼び起こされ、やがて涼風泳ぐみどりの海が開ける。旬の地魚を出されて喜ぶと同時に、戸惑いや躊躇いではなかったが、思い出したかのような間が作られたのを、地元の方は見逃さなかった。
馳走が一瞬の悲しさに染まる。一体、何のために、。