岩谷瓦斯概論綱要

空路鉄路海路を伝い、雨降り島の山路を急ぐ。けれども風は佐多の岬を吹き抜けて、はや三岳につきにけり。はや三岳につきにけり――。

展望どころか、灰色の雲が島を呑み込み、ほとんど絶望という暴風雨に視界は遮られていた。それでも、詩人は苦痛をも享楽する――、フードを上げ、諸手を広げて、そこが山頂であることを示す濡れた標識に抱きついた。

風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

大袈裟にやってみたが人影に気付いて、すぐにフードを被り直した。黄色いポンチョをマントのように羽織り、岩谷で佇立していたのは、外国人のように見えた。が、はっきりとした声でこう言ったのだ。

「どうして、忘れていくんだよ」

島に来て三日目、ようやく雨が上がった。燃えあがる縄文の樹はどれほどの星霜を送りて、今この朝陽を歓待しているのだろうか。そこから決して動かずに待ち、だから争わずに生きている。神を識らぬという人間にも憧憬を抱かせるのはきっと、そんな悠久への祈りであろう。

忘れたようにして、振り切ってきた。動かずにはいられなかった。だが、今この遊興の時間を共にしていなくとも、人間そのものに深く刻まれた友情をどうして忘れることができよう。

おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

それでも岩谷の青い焔は真っ赤になって憤った。

「どうして、嘘ついたんだよ」

屋久杉と照葉樹が混生する森は薄暗く、湿り気を帯びていた。燦々と降り注ぐ拓けた大地の上で、人との協力に肌を灼くのは誠実だけれども、森の陰湿はことに閑かで、独りだけを受け容れているように思わせた。汲んだ沢の水は苔の緑のきれいな味がした。嘘のない、ほんとうの味が。

確かに嘘をついてきたが、すべて見透かされていたのだろう。それでも黙して送り出してくれたことを考えてみれば、何が大切なのかはすぐに分かることだった。

われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

湿り気に消えてしまいそうな岩谷の熾火だったが、泣き出した赤児のように盛んな焔を吹き返した。

「どうして、捨てていくんだよ」

宮之浦、永田、黒味からなる屋久島の三岳の山容は、海岸より望むことができない。下山して、はや遠い島の岳となってしまった寂しさを慰めるのは、銀河を包む透明な意志と巨きな力と熱――、温泉である。

小さな島は俯瞰できる大自然であり、家族と人生の縮図だった。大きくては見渡せないが、小さければ見落とすことがないように、求めるのもほんとうは多くない。足元湧出泉の熱い湯にきれいさっぱり洗い流されたが、ただ、捨ててきた人を念っていた。

あなたが造ったのは、残念ながら、嘘つき詩人の未完成品だった。でも、だからきっと、また逢える。

永久の未完成これ完成である

逆櫓の船が島を離れてゆく。海から起きた開聞岳が待ち侘びて、夕陽をハワイに入れにけり。夕陽をハワイに入れにけり――。

忘れたふりをして、民宿の部屋に置いていこうとしていたのは、島内で入手し、山中で使用していた岩谷の黄色い瓦斯缶だった。

忘れていくのかと、中耳に反芻していた厭な声に咎められた。確かに可燃性の物であるし、まだ中身も残っている。黙って置いていくのは誠実ではないと改めて、宿主に処分をお願いするも、あっさり拒まれてしまった。

あ、いや、これ持ってると飛行機に乗れないし。たぶん燃やさないゴミとかで出せますから、と嘘をついても見透かされ、頑なに拒まれた。

弱ったな。厄介なことになった。調べてみると、確かにこの地方では回収できないごみとして指定されており、空港で処分できるかといえば、処分どころか「搭乗拒否」されてしまう場合もあるらしい・・・・・・。え、なに? 帰れないの、おれ?

途中の駅かどこかのゴミ箱に捨てるか? いや、爆発物を放置したとしてテロ行為の容疑がかけられてしまう。ええい、だったら目の前の砂浜に埋めてくれようか! いやいや、ここは砂湯の指宿温泉だ。地熱で熱せられて爆発でもしたら、それこそ大事件ではないか。え、なに? 捕まってしまうの、おれ――?

機上の人となり、夕方には一週間ぶりに出社でもしてやろうかといった、気楽な旅行者だった。が一転して、搭乗時刻が迫る中、どうすることもできないまま佇立し、額に脂汗を滲ませている。

 

「どうして、捨てていくんだよ」

 

指宿枕崎線のキハ200系も黄色い