まさにNobody

どうも嘘くさい。謙遜するようにして自らを、ただの職人と称していたが、誰かが耳打ちしてくれた。今は株がどうのこうのと――。お前の仕事は何だと問い詰めればきっと、含羞もなく、ビジネスだと胸まで張って返してくるだろう。

まったく中身が見えてこない。要約された知識のようなものを、何の迷いもなくひけらかす、そんな人間がちと多くはないか。またそれがそのまま伝播していないだろうか。語られるのは誰かの解釈で、だのに本人は得意顔なのだから救いようがない。

比するまでもなく、驚くほど面白かった話は話者を越え、祖父母のような姿まで見せていた。口伝とか伝承とか、そんな大袈裟なことではなく生活のことだったが、自ら体験し、思い出しては考えていくうちに、伝えられてきたことは更に実のある知恵や技になっていた。なるほど面白いわけだ。

背中に虎だか熊だかの毛皮を羽織り、昆虫は花蜜を求めてせっせと動き回る。暑いだろうに、重いだろうに、それでも脱がずに自分ために働くと、どういうわけか皆のためになっている。これがビジネス、とは違う所以。

その若い人は慣れない雪道に冷や汗を滲ませて、灯油販売の車を走らせていた。住民が凍えてしまう――、勿論そういった責任感はあっただろうが、使命感というほど大きなことではなく、当たり前の仕事だったのではないか。車が到着すると不思議なことに、その人を透かして住民の生活が見えてきた。

雪国の日暮れは早いが、夜は雪明かりに浮かび上がる。油を配り終えて帰宅した部屋にも灯りが点いた。しばらくすると窓が開き、濛々と湯気を吐いた大根が冬空の下に吊された。近所の人に作り方を教わったのだという。またその人を透かして、風景、自然がそのまま見えてきた。

先日吊したという干し柿も大根の隣で、少し照れるように実を窄めて、何だか温い寒風に晒されていた。