登りながら深層をさぐる

百の頂に登ると、何が見えてくるのだろう――。なるほどね、「二百名山」は百名山に連なる山も多いが、まるで知らなかった山域も少なくない。これは、終わらないのだね。ずっと・・・・・・。

途中で列車が切り離されて、少ない方の車両が上流域に向かって進み出したとき、思い出して、慌ててイヤホンを片耳にかけた。ラジオ第二で一年かけて放送されてきた『唯識 心の深層をさぐる』も、もうすぐ終わる。

「唯識」によれば、私たち人間のこころは八つの構造からなるもので、感覚器官である眼耳鼻舌身の前五識と意(心)の第六意識、以降の第七末那識と第八阿頼耶識は深層領域で、直接触れることができないという。その超入門だったが、テキストも下巻になるといよいよ難しくなってきた。

鏡に映したように、世界をありのまま見ている第八阿頼耶識と、いわゆる心である第六意識が見ているものは残念ながらまったく異なるものであって、私たちは誤謬に満ちた世界を見せられている。簡単に言えば、自身の感覚や意識に騙されているということだ。

無意識や夢の中を表現したシュルレアリスムの絵画などは、確かに理解に苦しいものを見せてくれるが、それが本当の世界なのだと言われても難しい。私の認識により色艶形が決定され、私に理解された世界でなければ意味を見出すことができないだろう。だったら、触れることのできない深層領域の、ありのままの世界なんて見る必要があるのだろうか。

しかし、「現行熏種子」自らの行いにより習われたことが種となり、「種子生現行」その種が生じて自らを行わせているのが、第八阿頼耶識。そうか、だから人により世界はそれぞれ違う。触れることのできない深層領域のこんな仕組みにより動かされていたのだと識れば、私は見たい世界だけを見ていたことに気付かされた。

賑わう参詣道から外れて登山道に入ると、閑かになった。イヤホンを外して、登りながら考えてゆく。それぞれが自分だけの世界を見ているはずなのに、どうして対立や争いがあるのだろうかと、ここで厄介なのが自己中心性を絶えず囁き続けている、第七末那識。

第七末那識も無記で、善でも不善でもないとされるが、例えば「自分も食べなければ」という状況に陥った場合など、生存に関わるゆえ自己中心性が常に動き続けていると思われる。しかしそれが「自分が」という執着を見せたとき、手を出せぬ領域につき厄介なのだろう。

利己的、自分ファースト。結局、深層で人間とはそういうものなのかと、固執した自分の「自分が正しい」世界をまた対立させるのではなく、唯識により心の構造を識り、考えることができれば、現行熏種子。自らの行いにより習われたことが種となるのであれば、あれ? 種子生現行、触れることのできない深層領域に今、触れている――

蟠りのない風に吹かれ、展望が開けた。一色の蒼天に富士の峰が凪いでいた。芸術家や作家、宗教家などが見ている世界を垣間見たような気がした。

あまねく見ることで、必ず見つけられる。「どうしてこの人は」と考えることで、自身の自己中心性はきっと止められる。鏡がそのまま映し出している世界を、本当に見られるかもしれない。