もはや洋にあらず

先月には吹雪いた公演日もあったが、一気に春めいて淑女たちの着物の柄もいよいよ麗らかに。古典芸能にしろ大相撲にしろ、和装の観客に春の訪れを知らされるというのはなんとも情緒がありますね。

『着流しと長髪』と今回は題されて、米沢の上杉神社で撮影した作家の写真が掲載されていた。郷土の作家の、その妻が情景豊かに夫を追想する、地方紙の連載が毎回とても楽しい。

なぜ、作家はいつも羽織袴を着けない着流しだったか。坂口安吾や織田作之助といった無頼派文士を象徴するような姿に憧れてもいたようだが、お召の羽織姿で講演に向かったタクシーの運転手から「落語家の方ですか」。実はそれに懲りての着流しだったというのだから、笑ってしまう。

作家を身近に感じさせてくれる話が多くあり、『峠越え』では自転車を分解してバッグに詰め、ざっくりとした計画だけを告げて独りで旅立った。まったく今でいうところの「輪行」をスマホもナビもない時代に、一枚の地図を頼りに実践していたというから驚いた。

作家が青春時代に傾倒したのが坂口安吾だった。その安吾の書と思しきものを古書店で発見し、破格で購入したという『安吾の色紙』。妻の筆によって作家はまた生き返り、言葉を発する。新潟の青年よ、安吾を読め。彼には悩める魂と、それゆえにだまされない冷静な眼があるのだ、と。

夫からのはじめての贈り物は「堕落論」だった。ロマンスもへったくれもなかったが、内容を機関銃のように語って後、本を差し出したときの真剣なまなざしを妻は今でも覚えていた。

しかも作家は高校時代にバンドをやっていたそうで、長髪はその頃からのスタイルであるというのだから、尚更身近に感じて掲載写真に見入っていた。

和服にはやっぱ長髪だよねと、もはや憧憬の対象が短髪の洋にあらず。今年は私も米沢紬の袷の着流しで、単は塩沢紬などというのを仕立ててみようかしらと。

しかし、やはり人は死にませんね。特に作家というのは、いつまでも死なない。