「不可視を可視に変える」即ちそれが芸術や芸能、文学の仕事で、中でも特にお能は語りすぎないから、詳細に語られるのだと。そういうことを対談型式で楽しく教えてくれる、木ノ下裕一さんの公演は今回、能「道成寺」を題材に、宝生流の家元を迎えて始まった。
能「道成寺」は鐘が再興される場面から始まるが、どこからともなくすーっと現れた女は、その鐘をどう見ていたのか。女の妄執は怖いねーとか、そんな陳腐な解釈で鑑賞したら、絶対にもったいないことを重々承知だったが、意外にも家元は、女は純粋な恋心で鐘を見ているのだと。んーそれでは何故、鐘の中から鬼となって現れるのか。
お能ほど、悲しさがはっきりと描かれた芸術はないと思えば、鐘は純情に対して大きな障壁となったのだから、やっぱり恨みの対象であり、その悔しさの悲しみが鬼となって現れたのだと私も共感する。
そもそも鬼とはなにか。誰が鬼を作ったのか、鬼にさせたのだろうか。それこそ女の妄執だと決めつけてきた、偏見や抑圧であると、悲しく語られ、可視化される。
すーっと舞台に現れてくる、そんなお能のシテ方を描いたような絵画で、静かだけれど饒舌に語り出すのだと、作家の宮本輝さんが日曜美術館で語っていた。出羽桜美術館で開催されていた、有元利夫展「優美な絵画世界への誘い」は小規模な絵画展だったが、完全にその世界へと誘われてしまった。
女なのか男なのかが、雲の浮かんだ青空に昇っているのか、それとも堕ちているのか。不思議にも快不快を超え、洋の東西や言語を問わない中で、絵画が勝手に語り出すのって、それってやっぱり自分が語り出していることで、絵を観て聞こえてきた音楽も、やっぱり自分が奏でている。なるほど重奏、耳にはまったく聞こえないのだけれども。