淵沢川の魚

十年昔は「暑ければ暑いほど釣れる」と実感していたが、ことに近年の盛夏は生死に関わる熱さだから、釣りどころではない。先達、先駆者、巧者、玄人に森羅と万象の釣り人たちは、夜明けと同時に釣り座に立ち、朝飯時には食卓に座っているのが温暖化時代の模範、常套だという。

老化により、明け方には目覚めているのだが、何故だか釣りに行く気だけは起きてこない。まどろみもせず、ギラギラとしながらも、これも老化によるものなのか、急上昇していく気温にそのまま茹だってしまうのだから、夕方にも起きてくることはなかった。

急に秋めいてきて、爽やかなる風に叩き起こされた。夏も終わる頃に慌てて釣り糸を結んだからなのか、どうして私はこんなに細い竿を携えてきたのだろう。釣り竿を折りながらも、なんとか捕れた大物の眼力に気圧されて戦き、そして思い出した。

釣り糸で繋がれたその手応えは、躍動する命の重み。昂奮の先に感動があり、魚釣りは漁狩猟ではないけれど、野性の、根源的な、とかなんとか、本当はそんなことは分からない。

釣りたいから生態を知り、環境を読み、捕まえて触る頃には好きになっていた。それだけのことなのだが、好きになった者だけが本当の価値を知る。しかし、知りながらも、また釣り鉤に掛けてしまうのを繰り返すのだ。この暑すぎた、夏の終わりにも。