昨年に事前講習を受講した「狂言入間川を観る会」の本公演をようやく鑑賞できた。訴訟のために都に留め置かれた東国の大名が勝訴して、いよいよ国へと戻る道すがら、富士を見て、武蔵野を見て、そして入間川に差し掛かるというその道行を、狂言「入間川」は他の曲とは異なる長さで見せる。
科白が削ぎ落とされた狂言の、登場人物の心理状態を理解して自らに取り入れるためには、そういった異なる点に注視しなければならない。はて、どうしてと、あまねく見て、片時も見過ごせないのだから、笑ってばかりはいられない?
何でも本気になると笑っていられないように、真剣な眼差しにしか真価は映らない。しかし、狂言の中にある風刺は、民衆の反骨精神に貫かれているように見えるが、鋭い指摘などに孕む、糾弾ということをしない。それどころか事件にせず、やっぱり笑いに包む。
笑いの中にあっても品格品性が保たれているのは、式楽云々というより、寛容である人間性によるものだろう。そしてそれがとても大切だということを、笑いの中に映し出すというのだから、芸術性はすこぶる高い。恐るべし、日本の古典芸能。
すっかり追っかけと化している翌週は、「山本会別会」東次郎師の米寿記念。配られた冊子には師による挨拶文が掲載されており、師であり父である三世のことが綴られていた。
芸養子である三世は、それ故に実子に厳しく芸を叩き込んだ。スパルタは能楽界でも有名で、稽古は問答無用だったが、会話の中で分からないことがあると質問に即答し、いつも明快に答えてくれた。
品性はどう身に付けるのかという問いには、「不善を為すな。ずるく卑しいことを考えるな。常に美しく綺麗なものに触れていろ」。
ドロドロで、卑しくてずるいのが人間だとも映し出されるが、小人閑居して不善をなす、その不善を為したときがドロドロなだけで、それは本当というか本来ではない。
奥にはやっぱり輝くような不二があり、それが人間なのだと信じると同時に、敢えて見せない、だからこそ見えてくる能狂言には、いつも恐れ入る。参りました。