ちょっと珍しい題のセミナーが気になって、何年かぶりにカメラの祭典に訪れた。「温泉」をテーマに、若い写真家と編集者と本屋とが作品をモニターに映して鼎談したが、若い写真家のそれは野湯を舞台にしたアドベンチャーであり、しかも大勢の出演者によって写されたものだった。
編集者はもともと写真家とのことで、仕事や生活に病んで都会を離れ、北の温泉地で働いているときに、湯治場の風景に見せられたという。温泉をタイトルにした写真集で受賞歴があるだけに、写真には孤独に癒やされて昇る湯治場の湯煙が閑かに切り取られていた。
若い写真家と組んでファンジンのような写真集を発行しているのが本屋だったが、パンクやインディーズが持つ自主性と反骨精神で発行しているのかと思いきや、集大成は大手から出版したいと、残念ながらハッキリと口にしていた。んーファッション、そんな感じなのだから感じ入ることはなかった。
映像祭で特別賞を受賞したと朝刊で読み、『春、阿賀の岸辺にて』を観に来た。ドキュメンタリー映画だから当然なのかもしれないが、これは前文のとは違い作為のない作品だった。
河水近辺に発達するのが生活文化だが、人の集まる豊かな阿賀野川は公害に汚染された。未認定患者の救済のために奔走した人物を中心に、集う人々の交流を記録――、というとなんだか重たい内容を予感させてしまうが、不思議な矛盾の中にある「楽しさ」が映し出されていた。
健康被害や被差別という、深い苦しみを滲ませた交流は全国規模になり、公害を縁にして絆を深く繋げていくと、次第に楽しさを希求するようになった。集まれば、交われば、人は楽しくなる。とても楽しそうに交流する人々に魅せられて、制作者は岸辺に集まる豊かな今を記録したのだろう。
これがあったから楽しい今があるとでもいうように、苦海をも乗り越えた。すごいな人間って。
フィクションであるとかないとか、そんなことではなく、どこかから、誰かから、借りてきたような作為というのがいただけない。被写体はもちろん構図なども、それがファッションにならないよう気を付けたい。あるべきものをあるべきように、やっぱり写真は絵画よりも難しい。
ただ、私がこの映画を観賞した会場が、物々しいところで。公民館とかで、大勢の爺婆子どもたちと一緒に観た方が楽しいかと。