先週の寄席とは打って変わり、和装のマダムが謡本を膝の上に広げて、優雅に能を観賞していた。東京能楽囃子科協議会の定式能番組という、囃子方が主催する能狂言の会だから、和楽器のお稽古をしている方も多いのかしらん。いや、高尚であるとかないとか、そんなことに気を取られていては、どこに本当があるのかは見出せない――。
狂言にも囃子が入るので番組は舞狂言。狂言「通円」は、能の形式をなぞって演じられる、能「頼政」のパロディーで、平家の横暴に反旗を翻した源三位頼政が、三百余騎に追い詰められ宇治の平等院で自害したことをもじり、通円という宇治橋のたもとで茶屋を営んでいた親爺が、三百人もの客に茶を点てているうちに死んでしまったというナンセンス。
「ばかばかしくてアシラっていられない」と、囃子方の中からも聞こえてきたとか。しかしそのナンセンスには、王朝文化や僧侶を含めた上流社会の思想の弱さを見咎めた庶民の、生きていくための労働つまり本当の仕事から、働かず作らずして何が「あわれ」だという嘲笑が込められているではないか。
日本の文化の中に流れている無常観あるいは無常美観の中には、自然による絶対的なものと人間の勝手さが作り出す人為的なものがあり、狂言はその後者に対決する姿勢を見せてきたと山本東次郎師。英雄(ヒーロー)と茶番(ファルス)は紙一重、パロディーの真意はここにある。
人間ってやっぱり滑稽だし、悲しいもの。人間が作った人間の社会の回転に自分を合わせなければならない。それはとりもなおさず「かいらい」傀儡の人形にほかならないというのでしょう。
どんな仕事であれ、その中に自己の存在理由を求めてしまえば、虚しさに変わる。無常とはそのような人為的なものではなく、どう足掻いても立ち向かうことのできない、大いなるものとのつながりを感じたときに起こるもの。そこにあわれを映し出したとき、それが美しさであり、その美によって人間は救われるのではなかろうか。
狂言が主題とする人間賛美に、庶民も貴族もない。人間は一つ、すべての人間が不完全だからであると。
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今日もまた山本東次郎師の狂言に震えていましたが、能の囃子方による早舞などもアレですね。テクノとかトランスミュージックだとか、そんなのはきっと足下にも及ばない。頭の中に音が錯乱しているのではなく、心が映し出している世界に、大風が吹き荒れたり凪いでいたりして、美事に響いているのです。