不明のままでも

ボランティアガイドによる定時案内のアナウンスが館内に流れた。誰も集まらない。職員たちが積極的に声をかけるも、皆首を横に振って逃げていく。捕まった来館者が一人だけいたが、丁寧な説明を熱心に聞いていくうちに、太田道灌。えーと、道灌? おお、確か新作能にあったぞ。

七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きに悲しき

狩りに出掛けた先で雨に降られた道灌が、近くの農家で蓑を貸してほしいと申し出るも、農家の娘はうつむきながら山吹の一枝を差し出した。後拾遺和歌集の古歌にかけられたその意味が分からなかった道灌は、不明を恥じて精進したという。

マンツーマンでのガイドは絶頂し、有り得ないほど延長したが、時間を守らないと結構マジに博物館の方から叱られるらしく、二人は涙を飲んで会者定離。気を取り直して展示を見直そうと、旧石器時代のコーナーに戻るも、今度は縄文・弥生・古墳担当のボランティアガイドが走ってきたじゃないか――。

博物館や民俗資料館、それからお能なんかも地方で観るに限る(とくに金銭的に)と常々思うのだが、日本民藝館。ここだけはどうしようもない、渋谷とかを経由して行かねばならない。

雑器や不断使いに用いられるものに美を見出すことができるのは直観、字の如く直に観るという本来内在する感性であり、展示されている作り手の名が分からない工芸品すなわち民芸品を、思想や嗜好、習慣で見てしまっては何も見えてこない。見てやろうとして知識を集める、感性を研ぎ澄ませる、なんてことがそもそも大間違いであり、ありのままをありのまま映すことのできる鏡を持っているにもかかわらず、その鏡を自らに向けて懸命に磨いているというのは、愚行そのもの。

生活の中に美があるのではなく、真の美の中に生活がある。なるほど、大衆に成り下がらず、民族ではなく民衆であった人間が、最も人間らしかった縄文時代の土器や装飾品、祈りがそのまま形となって顕れ出た土偶などに強く共鳴するように、雑器に見出された美を観るのも「私」ではないということだ。

深く感心したまま、銀座の、銀座の能楽堂へ赴けば、前の席に有名歌人。地方とは異なる、ただならぬ銀座の緊張感に飲み込まれ、ほとんど最初から夢の中であったのだが、きっと本当の私は最後まで瞬きもせずに観ている・・・・・・。