愁人湯行

白く枯れた枝先をジン、白骨化したような幹の一部をシャリといい、神仏まで坐す盆栽という鉢植えを覗き込むと、途端に世界は一変して小千世界に——。力強く断崖をつかむ八方根から枝垂れを伸ばし、その常緑の葉で奔流を涼しげに浴びていたような展示品には、おお、深山幽谷の寂寥が走っているではないか。

前傾姿勢でせり上がってくる迫力は、まるで雲竜型の横綱土俵入りだったが、渓声即ち是れ広長舌。なるほどね、自宅に居ながらにして盆栽からそれを聞くことができるのだと。都での憂さ、というより混雑雑多での精神的疲労を洗い流すために訪れた盆栽美術館はとても楽しかったのだが、何のことはない。行けばいいのだ、三千大千世界。深山幽谷へ。

愁う人は山に行くと画家は言っていたが、いよいよ寒くなってきた。なので山の湯に行かう。

豊沢川の流れは最早色彩を失っていたが、絹地に墨の濃淡だけで浮かばせたような、鮮やかな銀色を滲ませていた。一段下りたところの露天風呂はとても小さいながら目線を川面に這わせ、せせらぎよりも大きく、かつ侘しい川音を耳目に迫らせる。しかし、それはどこまでも閑かで、そうか、降る雪に掻き消されているのかと宙を見上げるも、まだ青豆ほどの小粒で、頬に触れて消えたのかも分からないほどだった。

色と音のない冬枯れの山川。その中で鉛温泉の湯だけが、ほのかに香る。しみじみと冬の温泉で、思い煩うほど退屈でいられようか。

往路の路線バスは大沢温泉にも多くの湯治客を運んでいた。宿の帳場で布団がいくら、炬燵がいくらと算盤を弾き、農閑期に湯治するという文化は、厳しい冬がゆえに自ずから生じたのだと思う。

厳しさを受容すると見えてきた、暖かい冬の過ごし方。だがそれは諦観ではなく、体調を整えて来季の豊作へ繋げようとする、東北人の智慧ではなかったか。戦慄せしめられて、また遠野へ行かう。