湯がわいてゐる

相手のまわしに喰らい付くようにして優位な体勢を作る取り口が、かつての横綱鶴竜を彷彿とさせてきた大関霧島。早くも綱取りとなる来場所を展望しながら、九州場所で優勝した霧島の話ばかりしていたからだろうか。霧島連山へ行ってきたものだと思われ、そのうち自分でも霧島へ行ってきたように錯綜しては、手渡した土産を手渡された人間と同じように振り返っていた。どうしてカステラなのだろうと、しばし考え込んでしまったではないか。

諫早湾の干拓道路でいよいよ肥前島原の雲仙岳と正対したが、残念ながら山頂部は霧に覆われていた。

その昔、雲仙は温泉と書いてそう呼ばれていた。西国の地獄は燃えたぎるような極楽の湯を沸かしていたが、湯煙を蹴散らしながら吹く風はすでに冬をまとっていた。予報では明日、強い寒波が入る。気温は氷点下になり、山頂では強風になるという。一日置いて登山を明日にしたのは、それが霧氷が着く絶好の好機だったからだ。

古くから外国人を集客してきたモダンな雲仙温泉ではあるが、古湯と新湯にある共同湯はどちらも馴染み深い趣きを残していた。湯船の中で地元の方と会話するも、霧氷はまだまだ先のことだと鼻で笑われた。明日の寒波に身震いし、今日のうちに登った方がいいと言い張っただけでは治まらず、少しだけ熱めの湯を五十度は「ある」と譲らなかった。

始終を宿の番頭に笑って話すも、五十度は「ある」とまたしても。ロープウエーを完全運休にさせただけでは飽き足らず、真剣な眼差しがみるみるうちに路面を凍結させ、次第に除雪車を出動させたのだった。肥前でも霧島でもなく、私はいつの間に蝦夷の地へ飛ばされていたのだろうか。

 

照葉樹の森を歩いて仁田峠にたどり着くと、駐車場は車で一杯だった。路面の凍結どころか、二輪車の集団も上がってきており、笑顔で記念撮影をしているではないか。

完全営業中のロープウエーを見上げながら妙見岳まで登ってきて、ようやく普賢岳の姿を望めたが、その山頂は強い風に取り囲まれて震え上がり、強請られているかのようだった。

肉をむしり取られ白骨と化した灌木に身を隠し、風を凌ぎながら何やら撮影していた女性と目が合った。花が咲いているのだと言ったが、島原の人は嘘つきだからと訝しむも、薄ら咲いていた。

「花ぼうろ」枯枝に着いた霧氷のことを土地の人はそう呼ぶらしい。博多人形のような色白の美しい顔を和やかにして教えてくれたが、よほど寒かったのだろう。少年のような鼻水が少し、左穴から垂れていた。

 

山を下るとそのまま海が開けた。隆起した山そのものが島になっているのだから、海にも同じ熱源の温泉が高温泉で、しかも豊富に湧き出でる。名湯小浜温泉の湯は飲んでもうまいと漂泊の俳人。種田山頭火の句が碑に刻まれていた。

「さびしくなれば湯がわいてゐる」

温泉ファン垂涎の脇浜共同浴場で、冷えた体を芯から温め直そう。先客は二人、父子だろうか。静かに語られていた息子の言葉は、いつの間にか私たちが忘れてしまった言葉のようであったが、父親は息子のその言葉を理解し、甲斐甲斐しく体を洗ってから、優しく手を引いて湯船に導いた。

西日が傾いてきて、湯の上で揺らめいている。私も静かに湯の中に身を落とすと、心から茜色の落日が温かく沈んでゆくのが見えた。