鬼の研究

能の舞台となった史跡を訪ねる謡蹟めぐりとは、まさに光を観る、観光かもしれない。全国湯巡り行脚から日本百名山への登山行を経て、いよいよ『謡蹟めぐり』(みちのく篇)を捲っての安達ヶ原だったが、管理する寺院の受付には誰もいなかった。と見せかけて、鬼婆が閨で屍を積み上げている! かもしれないと用心深く見渡すも、境内に人影はなかった。隣接する道の駅も休館日のようで、鬼っ子一人いなかった。

入場料を受付に置いて勝手に観て回るか、いやそれでは不法侵入かと逡巡するも、一番気になっていたのは高額な入場料だった。四百円は高いよと思いつつ、小さな声で「誰かいませんかー」「いませんよねー」とか何とか言って、境内へ。

門を潜ると、すぐにお目当ての「黒塚」が目に入ってきたのだが、まだ入場料を支払ってはいないので、見てはならない。見てはならないと言われると、覗きたくなるのが人間の心情。例によって、古典的手法の術中に、おもいっきりはめられているではないか・・・・・・。

もちろん、能はホラーに非ず。鬼として生きなければならなかった、無力な者の哀しみを汲み取らねばならないという、大きな主題が描かれている。「女は、好んで人肉を食らうのではない。苦しんで、悩んで、それでも絶ち難い煩悩が、そうさせるのである」と林望先生の本にもあるように、ならば鬼とは一体何か。誰が鬼を作ったのか。

どうして鬼を題材にした能は、「もっと考えたい」と思わせるのだろう。閨に積まれた屍を見られた後、登場する安達ヶ原の鬼女には、怒りや絶望よりも強い含羞があるのだ。