版画ファン、船を待つ

すっかり離島ファンとなっていたところに、渡りの船が出た。喜び勇んで乗船するも、月曜日だったことをすっかり忘れていた。版画村美術館は休館日で、力なくレンタカーを走らせていると、海岸端の小さな集落に出た。屋外版画美術館として人家の壁面に飾られていた版画は、どれも島の風景や暮らしが丁寧に彫られていた秀作だったが、なに見てんだこのやろう! と、家の人が出てきそうで、じっくり鑑賞出来なかった。

版画について少し学びたいと、今度は国際版画美術館を訪れたのだが、展示入替のため常設展示はなく、リトグラフやエッチング作品の小企画展示のみだった。

言わずもがな浮世絵版画は日本独自のもので、対して西洋の版画と言えば銅版画だろう。緻密で詳細された銅版画に比べて、木版画は良くも悪くも立体的だが、その陰影が物語るのは、実は大変に繊細なのではないか。

空は軽やかに、野原は長く広く、葉は短く生き生き、そして建物は厚くと、ルノワールとセザンヌの展覧会で解説されていた通り、結局は見たまんま。そのまんま描く、ということでいいんだと巨匠中の巨匠は教えてくれているのに、どうしてそのまま描くということが難しい。言葉、文章もきっと同じことで、どうして出来ないのだろう。

なにがどうしてこうなった、などという自己裁判を一々起こさないのと、無理矢理に個性を出そうとしないのは同じこと。

無心に彫られたようでいて、陰影に富みまくった描写の木版画には、やはり何か大きなヒントがあるのではと、再び渡りの船を待つ。