海鼠釉の鮮やかな色合いがとても気に入り、新庄東山焼の酒器を購入したのだが、どういう訳かそれで呑むと美味しくない。器の厚さが燗の温度に影響しているのか、何だかよく分からないのだが、同じ酒を薄い白磁の徳利に注いで呑むと、うーん、いつも通り美味しい・・・・・・。以来、酒器を購入する意欲が失われていた。
最近になって、瓶ではなく陶器で売られている酒を蒐集するという妙な意欲が湧いてきて、益子焼に入れられた酒、などというのもあるかもしれない。いやある、絶対あるでしょと、陶器の里を訪れたのだが、陶芸美術館で鑑賞した「土鍋」に心を奪われる。
現代の陶芸家による作品だったが、「おれは土鍋屋じゃない」と作者が嘆くほどに好評を博したのだとか。古武士のような佇まいは、まさに坂東武者といった威厳に満ちていたが、なんか動き出してきて、よぉーって話しかけられそうな親しみも感じられる。こんな土鍋で関東炊きにして熱燗をきゅーっとやったら、どうだろう。いい。いいよ、土鍋!
急ぎ向かった窯元で土鍋を求めるも、「うちは土鍋屋じゃない」突慳貪に一蹴された。私は何をしにきたのかと自問。
坂東武者の強さが、どんな風土によって培われたのかを学ぶべく、坂東にある自然博物館の門を潜ったのだが、しまった――。世間は春休み真っ只中、大変な盛況の中を全速力で駆けてきたキッズに烈しいタックルを見舞われ、体勢を崩しながら私は学んだ。この世は地獄だと。
霞ヶ浦や北浦などの湖沼は、多くの種類の植物が生育する水草の宝庫だったが、生活排水や農薬などの流入による水質汚染と富栄養化、護岸工事による生育地の消失により水草の生育は激減。日本に生育する水草の四十一パーセントが現在は絶滅危惧植物に指定されている――。そう、もはや半数近い割合が絶滅危惧、本当に末法の世なのだってところで、また別のキッズが私を目掛けて駆けてきたではないか。
打撲傷を癒やすべく立ち寄った板室温泉は、時の流れをもう随分と前から止めていた。それでも歴史ある温泉は変わらず豊富に流れ出しており、那珂川の渓声も途絶えることがなかった。そんな閑かさの中での湯浴みはまさに極楽で、よくやってるよなーと気楽に吐き出していると、浴室のガラス越しに、小猿を抱えながら木の新芽を食んでいた、ましらの姿が見えた。
理由はいかんにしろ、繋いできたこの命をまた繋がなければならない。だのに、花は咲かず実も結ばずで、ついには湯の中で遁世者のように振る舞う私は、何も学んでいなかったと自答。
「八寸ハ、桜鯛ノ菜花ト筍ノ昆布〆ト胡麻豆腐ノ酢味噌和エ、デス」
少しずつ間違えていますけど、よく覚えましたねーと、外国出身の仲居の流暢な日本語に感心した。塩原温泉郷は門前の宿だったが、労働力不足は日本文化を象徴する温泉地にも影響を与えているのだろう。そうして訪日客をもてなすのだから、日本料理が出てこなくなる日も遠くないのかもしれない。
そんなことを再考するためではなく、奥塩原の新湯を目指してきた。が、どういう訳かすべての共同湯が利用禁止になっていた。これも労働力不足によるものだとしたら・・・・・・。すぐ裏山で濛々と煙る熱源、泉源から鼻腔を伝い、温泉ファンの魂を昂ぶらせるような硫化水素臭を胸一杯に吸い込んでは、ああ。涙を呑んで新湯を後にした。
「イラシャイマセー」
元湯の旅館の従業員も、ほぼすべてが外国出身者と見えて少し驚いたが、この新たな力がなければ繋いでいくことができない。それどころか、温泉にすら浸かれなくなるのだから、ありがたやありがたや。
帰路で聞いていた、カルチャーラジオのテーマは「旅」で、最終週は俳人が遍路旅を語っていた。
一際大きな荷物を背負っていた旅人が、結願の寺で降ろしたのは、遺骨だった。一人息子なのに、孫の顔を見せてやることもできなかった。親不孝な子どもでしたからと、両親を背負ってきた――。
重たいものをなるべく背負わず、だから軽くて、やったー、自由だー。それはむしろ、真逆だった。非常に重たい罪のようなもの、確かにそれは意識でしかないのだけれども、それほど重たいものは他にないではないか。
温泉を巡る旅は二周目に入り、名山に登る旅ももうすぐ目処が付く。次は遍路旅、最後は大峯奥駈道と、自分の路を繋いでいくことばかりに捕らわれていたから、私は大変なことを見落としていた。
重いぞ。こんな重荷で歩ききれるのかと、急に不安になってきた。