中々出来ない。画がわかり始める

どうにも「漂泊」という言葉に引っ掛かる。漂泊したが故に幻の画家となったのかは分からないが、不染鉄の絵画展『理想郷を求めて』に流れ着いた

とても一人前の画家になれる気がしない。どーせだめなら此の心持ちを淋しいのを心細いのを涙が出そうなのを画にかいてやろう

不染鉄の言葉に、のっけから引き込まれる。時流もあってか、横山大観などの朦朧体に寄せられて、一軒の茅葺き家がおぼろげに描き出されていたが、寂寥の中でも飄々(まさに飄々)としており、初期の作品から既に画家そのものの姿が顕れていた。

釣りが大好きです ですけれど毎日釣りばかりしていますと色々な事情が生じてきまして、思うにまかせません 画をかく方は同じ事のようでいくら書いてばかりいても一向に差し支えません 人生とは何でしょうかなぞと考えます よくわかりません 一人で楽しむということがなりたたないのでしょうかねえ

湖沼や水辺の何気ない風景を好んで描いた不染鉄は言う。名勝の景は美しいが、真に美しいのは心が静かなることであると。辺の藪の中に釣り人が静かに(まるで青鷺や五位鷺が樹枝に扮するように)潜むとき、そこには真剣なる命が燦然と輝いているのだから、ああ、なるほど。心が静なれば此世は全部美しいのだ。

廿四の時美術院研究生となる。女をしり身を持ちくづす。人間の淋しさを深く知り、一切のうそをやめようと思うようになる。中々出来ない。画がわかり始める。

伴侶を喪うと、うねるような波間に一艘が漂った。春風秋雨、来し方を偲ぶ不染鉄の心境が絵画からありありと窺えるようになる。風任せに生きてきたが、漂着した島には富士の峰や蓬莱山がしっかり見えていた。いよいよ画家の個性が自由に、唯一無二の絵筆をとって描かれていく。

見聞、思惟、染み出てきたのは因果であり、彷徨した理由なのかもしれない。そうか、思うことがなければ、漂泊することもないのだ。なんだ、漂泊することもないそんな人生なら、描かれることも絶対的に少ないではないか。

意自ら紙背に徹する。晩年に描かれた銀杏の古木は、黄葉で埋め尽くされていた。幼少期や両親との思い出とともに、山河に囲まれた村の御堂が浮かび上がると、その落葉の中で浄土として結実。一個の完成、結願を観た私が、しばらく絵画の前で佇んでいた。

漂泊の画家、不染鉄。錆びた古い自転車に老いた自身を重ねて、恥ずかしがることはないと語りかける。

 

恥ずかしいのはきれいに見えるうそだ