ハッキリ言って

「狂言を観る会」が五十回の記念ということで、開場を大ホールに移して開催。まあ、前日に催されていた能の舞台を、そのまま流用した形でしたが

その前日の能は「船弁慶」で、よくかかる人気の曲は前シテを静御前、けれども後シテが平知盛の怨霊という、まったく繋がらない前後の主人公がゆえに展開は壮大。実は判官源義経役の子方に見どころがあるのではという、勝手な親目線もまた楽しいものだが、そもそも静という愛妾が登場するのに義経はなぜ子方? こういうところにも古典芸能の格式の高さ、気品が見えるから奥深い。泥臭いところは絶対に見せないように施されているのね。

そして、船弁慶は何より狂言方が大変面白い。狂言の魅力に気付かされたのもこの曲の間狂言で、狂言方による語りの強さは、そのまま言葉の持つ力の強さであり、語られた世界に引き込まれるのだとかナントカと、私が頑張って説明しても言い表せないので是非、大蔵流山本家の能楽師による語りを聞いていただきたく候。

地元で開かれている講座に山本則重氏がゲストとして招かれたとき、「このお家の方たちは、違いますよ」と講師である喜多流の能楽師たちがハッキリと言っていたことが、その後に実演された間狂言の語りで明らかにされたし、能楽評論家の著書などにも実はハッキリと書いてある。本物だと。

今回のアイは弟の則秀氏だったが、荒れ狂う波頭の上を操船する様は観る者を惹き付け、雷鳴轟き大波に揺れる後場の舞台が見事に映し出されていた。この兄弟、ハッキリ言って痺れます。

狂言を観る会の最後は、お楽しみの東次郎師のお話と小舞。実弟であり、兄弟たちの父である山本則俊師の逝去に伴い、弔いを兼ねて舞われた狂言小舞「祐善」は、日本一下手な傘張りと言われ、皆から見向きもされなかったために狂い死にして地獄の底に沈んだが、回向を受けて極楽往生ができたと謡い舞う曲。

東次郎師の舞いと兄弟たちの地謡に乗せられて極楽へ、それもちょっと愉しそうにして往く姿が結構ハッキリと見えてきて、思わず涙と笑いが出ましたよ。

命は既に蝿取り傘にて、地獄の底に住み傘なりしを、今逢いがたき御法を会下傘、弘誓の船に、半帆を上げて、はちすの花傘、蓮の葉傘を、差し張りて行く程に、これぞ誠の極楽世界、これぞ誠の極楽世界の編笠や、南無阿弥傘の、ほのかに見えてぞ失せにける