造化に従ひて

造化に従ひて四時を友とす——。束の間の休暇も、あれよあれよと湧き立った雲が霧になり、そのまま雨に変わった。無理に登ってくるのではなかったか

出先での休みや空き時間などは、主に美術館や資料館巡りなどに費やしていた。すると苦手だった現代美術の面白さに気付いたが、現代詩で具合が悪くなった。しかし、詩的なものは童話的なければならぬというように、なんだかヘンテコな詩でも読み込むうちに、分からないけれど分かってくるから自然。なるほど童話的というのは額面通りではないのだね。

文学館で見つけた少し古い図録を購入すると、その中に『現代短歌辞典』を通読した方がいいとあった。言われるがまま宿泊先の駅前旅館に取り寄せてみるも、そのまま辞典ではないか——。これを通読、ですか・・・・・・。

日本画中心の美術館に一枚だけユトリロの絵画があった。所謂「白の時代」ではなく「色彩の時代」の作品だったが、どうして孤独寂寥哀愁ばかりが漂う前者のものに評価が高いのか。

自然に向かって開かれた窓である印象派に比することなく、パリの街景と画家の心象との一体化が高い水準で実現しているのだという。そう言えば、批評家の講演録にも同じようにあった。

詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるものでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。

信州高山は七味温泉、そして言わずもがな山田温泉の大湯がいい。湯よし蕎麦よしの風光明媚な湯治場に小林一茶の門人が多く居たことは知っていたが、立派な記念館があったことは知らなかった。聞けば、真筆の保有数は国内一なんだとか。

奉公人から俳諧宗匠にまで身を立てた一茶の、その研鑽というものは計り知れない。また、生涯に二万句を詠んだというのも他の追随を許さないだけでなく、それこそが徹底して自己と向き合った形跡なのだ。到底、常人の出来ることではないとしても、なるほど通読することなら出来るではないか。書けずとも描けなくても観たり読んだりすることで、消えてしまうような自分の感情を見定められる——。ただ四時を友とし造化に従ひて、言語の雅俗より心の真をこそ述ぶべけれ。

雨に打ち付けられたテントの中で諦観すると、フフ。一茶の句が引き出されてきた。

大の字に寝て涼しさよ寂しさよ