価値観の違いなど

先月にテレビが壊れて、渋々買い換えたのだが、壊れてはいけない家電が壊れてしまった。困ったことになった。家庭用「湯煎式熱燗器」は後継機も発売されていたのだが、一合徳利の仕様に変わってしまい、私の錫ちろりは二合なのよんと、嘆き哀しんでいるうちに買いそびれてしまっていた。そして先日ついに壊れてしまった。

禍福は糾える縄の如し、なのかなんなのか。なんとこの冬に新型機が発売するとの朗報。残念ながら一合仕様なのは変わらないが、七段階の温度調節と電源コードがマグネット式になり、コード長も延長されるといった大革新! ・・・・・・二十一世紀も随分と経ったよね、人工知能がなんとかという時代なんだよねと、熱燗器の日進月歩を思わずにはいられなかったが、思い切って購入――

今日は群馬県桐生市での会で、我ながら様々な土地で能狂言を観賞しているものだとそんなことよりも、この桐生市の会はまったくもって素晴らしく、安価だが、古典芸能の解説者による進行と曲中に出てくる用語や風習などの解説、二から三曲の後には人間国宝・山本東次郎師との対談の時間まで設けられている。なんだか妙に揺れる両毛線に揺られても、この会の意義は余りある。ありまくる。

止めどなく落ちてくるそれを堰き止めようとしていたのは、私だけではなかった。鼻を啜る音に振り向くと、なんと多くの観客がハンカチを口にくわえて喘いでいるではないか。狂言「靭猿」は、確かに前半は理不尽極まりなく、その遣る瀬のなさが動物の純粋なる仕草によって哀切へと変わっていくのだが、はたしてこんなに涙に濡れたかなと。そこはさすが、大蔵流山本家の狂言。他家他流には見えないその緊張感は、個性を廃した様式美に徹底的に磨かれたものであるからして、胸に迫り来るものがまるで違う。

さて、泣いて悲しんで、それが解消されて良かったねと、そんなところに狂言が映し出す心理はない。猿引の猿を射殺してその皮で矢を入れる靱を飾ろうとする大名と、猿をまわして生計を立てる猿引がともに違う価値観で葛藤し、最後には猿の舞に興じた大名が一緒に舞いながら着物を脱いでいくのが描かれている。

いつ人殺しになってもおかしくないと言えば、大袈裟にも聞こえるかもしれないが、その想像力を欠いた人間は危ういのかもしれない。厄介な自我はいつ何時でもあっと言う間に本当の自分を隠し、無垢なものへの見方を誤らせる。無垢とは美醜の価値観によって打ち消されることのないもので、本来清浄、他に二つとない一なるもの。なるほど大名が着物を脱いでいくのは、それを表しているのだ。

一なるもの、本当はそれしかないのに分別して、例えば善と悪に、あるいは美と醜とに分けてしまう。だから私たち人間は常に自己を点検するように、自分よりも他者を見なければならない。想像しなければならない。

――頂いた熊野灘の干物を焼いて、これまた御歳暮の三河酒に炬燵の上で燗を点ける。ピーッと鳴って青白く点灯するランプが、おお、ハイテクだ。なによりも烈しく噴いて一気に沸き立つその速さは、おお、マグマ!

まるで時代遅れの人間を見るような目で家族は見ていたが、価値観の違いなどに人間の違いなどないことを改めたい。ばっちり熱々の猪口を、フーフーやりながら煽る仕合せ。

おお、。