「ああ、好きでしたよね。こーゆーの」「え、私がですか?」かつてパンクバンドのライブ会場で、何だかよく分からないコスプレをさせられていた、売り子に言われたことがあった。淋しかった。
一緒に仕事をしていた好青年は、陰を隠していた。少し踏み込んで聞いてみると「・・・・・・オレ、ヲタクちゃんなんです」。淋しそうに言った。
いやはや、結構ではありませんか。好きなこと、それが毒もみでない限り、大いに結構。「実はなんか、同じ匂いがしてました」とたくさん話をしてくれて、仕事が終わったら一緒に逝きましょうよ、と相成るも。
駄目よ、私この後、ランプの宿だもの――。
ランプの宿、湯浜温泉は栗駒国定公園に湧く秘湯。ほのかに香る硫黄泉は、コニーデ型の秀峰栗駒山のように色鮮やかな湯ではないものの、汚されることのない渓に澄み、晩秋に震える肌を静かに包み込んだ。
「人は名湯かどうかの判断を、じつは五感全体でつかんでいる」と温泉評論家の石川理夫さんが言うように、思考よりも先に感応している。いい温泉に触れる度、言葉は追いかけてやってくることを改める。
言わずと知れたランプの宿は津軽の青荷温泉だが、演出によるものだし、新たに掘削を試みており、湯小屋も古いものではない。しかし、蒸気機関車に乗って楽しいように、やはりその湯小屋には趣があり、射し込んだ秋の日が湯のさざ波に紅葉を散らした演出には、ぐうの音も出ず。五感が感応しているのは泉質そのものだけではないらしい。
すでに宿泊の営業が終了していた、須川高原温泉に立ち寄るも「お客さんお客さん、大浴場はあちらですよ」。
その声に振り返っただけで「ああ、湯治の方でしたか」と目されて、自炊棟にある霊泉の湯に通された私だった。淋しかった。