偉大なる山河、と線路

我田引水ならぬ引鉄。岡谷から塩尻までの中央本線は、政治により辰野まで引き下げられたという。それで現在は、みどり湖行きとの二股になっているのだが、そういうのホント止めてほしい。乗る方は大変なのと、課題だったその二股を乗りに塩尻、岡谷辺りをウロウロとだけして帰るに忍びなく、飯田線で湯谷温泉を目指すことにした。

辰野から豊橋までの長大なローカル線、飯田線がいよいよ始まった、と思ったらすぐに列車は止まった。飯田線は駅が多く、停車の度に車掌が切符や運賃の回収に駆け回る。身延線もそうだが、東海の車掌は何だかやる気が違う。運賃収入だけが頼りのローカル私鉄線と同じような気概で、無賃乗車は絶対に許さないという矜持が見える。

南アルプスの高峰、仙丈ヶ岳が車窓に映った。反対側の中央アルプスは霧の中にまるごと隠されていたが、伊那谷の平穏は木曽路の奥の奥まで続いているように見えた。後部席からワインが香ってきた。お父さんがマグカップでやりながら、ずっと何かを食べている。咀嚼の音が少し気になる。

独りで坐る若い人たちが多く乗車していた。私と同じく、青春きっぷの利用者だろう。お父さんの咀嚼音のおかげで、若い鉄道ファンたちと何度も目が合ったが、私は私で、鉄道ファンではない由を全身で発していた。紀行文学ファンですと言いたいのだが、もちろん伝わる由もない。

飯田を過ぎて天竜峡まで来ると、飯田線は一気に秘境路線へと変わった。谷間を縫い、崖の上に敷かれた線路から川の流れと同じように走っていく。どうしてこんなところに駅がと、驚く間もなく、列車のドアが開いた。飯田線はそういうところから人が乗ってくる。しかし、車掌の気骨は随分と長閑になっていたようで、どう見たって鉄道ファンには見えないであろう私は、検札されることもなく、湯谷温泉駅の無人改札を抜けた。

 

豊橋というと何故か、まず渇水を思い浮かべる。豊橋平野の水源となるのが豊川と合流する宇連川で、ちょうど湯谷温泉の辺りに天然記念物の岩脈、馬背岩がある。肝心の温泉はというと、古い方の『日本百名湯』に選出されてはいたが、そもそも三河地方は温泉地ではない。「飯田線で?」と温泉宿のフロントで訪ねられて今度は、温泉文学の方ですと発したが、『温泉文学事典』からは、アトピー性皮膚炎に効果ありとの、まるで文学っぽくない随筆が引かれてきた。

今日は大先輩に会う予定があり、時間に遅れてはならないと始発の豊橋行に乗車。というのは嘘で、少し上って大府から武豊線、多治見から太多線を乗り継いでも、昼の会食に間に合う。そのための始発だったが、さっそく東海道本線で列車の遅れが生じてしまった。

どうする、武豊線は地味に面倒な場所に敷かれているぞ、どうしても今日乗らないと今後が大変だぞ、という魔の囁きを振り切れるはずもなく、大先輩に連絡。「列車遅延のため、遅れます!」嘘ではない。私は嘘をつかないと、終点の武豊駅に到着。駅前の銅像は、鉄道ファンなら知らない人はいない鉄道マンで、写真を撮っていたら老婆に話しかけられた。

「そういう人がよく来るの」だから私は違うのだと、それでも「よく来るのそういう人」と、縋ってきたお宮のような老婆を寛一のように振り切って、一路多治見へ。

 

多治見から美濃太田の短い太多線は非電化路線。東海らしい転換クロスシートに、ワイドビュー風の車両が嬉しい。自由席と銘打たれていたが、そもそも指定席などないではないか。当たり前だ、これは「自らに由る席」そう読むのだと、私は独りで息巻いていた。

列車は木曽川を渡る。濃尾平野を作ったのは木曽川だが、その平野に線路を敷いたのは、架橋したのは人間である。一人では到底太刀打ちできない自然に、力を合わせて立ち向かい、そして列車はどこまでも走っている。だから人間もすごい生き物なのだと、心の底から実感する。

遅れてきたのに、ひつまぶしを御馳走なるという厚かましさも、また同じではなかろうか。大先輩に財布を出させないだなんて、濃尾傾斜運動に抗うようなものですという、おべっかが阿房らしい。

静岡で新幹線を降りて沼津へと向かう途中、日本三大急流の一つである富士川から富士山を車窓に頂いた。この大河は奥深い南アルプスから生じている。私は私で性懲りもなく、御殿場線の乗り残しを片付けてから帰省しようと思う。