越後奥三面 山に生かされた日々

八千米峰に登り、それで人間の強さがどうのこうの、という特番を見たのだが、何用あってそんな危ないところへ・・・・・・。極限状態で何がどうなるかは知らないが、人間の本当の強さはもっと身近にある(あった)のだと、リマスターされた記録映画『越後奥三面 山に生かされた日々』から知らされた。

ダム開発に沈められることになった山峡の村、奥三面の縄文時代から続くとされる文化や風習、生活を出来る限り記録しようとした意欲作で、その中には、生きていくための、沢山の仕事が鮮明に映し出されていた。

人間が持てる力と強さを失った後に待ち受けているのが、死。至極当たり前のことなのだが、今はその道理に直結しない。ほとんど最初から生きていく仕事が奪われているのだから、その力も強さもすでに削がれている。力を取り戻そうとした、無謀な自撮りの冒険などが蔓延り、そして過激になっているようにも見える。

蜘蛛の糸より細くて強い素材を、漆よりも優れた合成塗料を、未だに造れていない進歩とは何なのか。動力を得て、劇的に変わった近現代は本当に尊いのか。雪の山に入っていく奥三面の人間は汗冷えすることのない木綿布を着け、動物の毛皮で防寒し、編み上げた蓑を羽織って雨露を凌ぐ。これ以上ない物を持つ者は、神が造った、そのことを知っている。だから年中行事に深い祈りを捧げる。

祈りとは、願う行為ではなく、聞く行為だという。折節毎に、間違えていないかを先祖に聞いている、そんなことなのかもしれない。もちろん挑戦は凄いことで世界を変えるが、わざわざ酸素ボンベを担いで探っているのを見て、思い起こされたのは「等覚一転名字妙覚」。安部龍太郎さんの『等伯』に出てくる、法華経の言葉だ。

生きていくための仕事。それはものすごい楽しいことなのではないかと、ことに最近、縄文遺跡を巡っているうちに、その生活の辛さよりも楽しさを考えるようになった。「なぜ私が」「苦しまなければならないのか」というのが、充実や実感に乏しいだけの空虚な煩いであったとしたら、それは自分でやらないからだろう。本当に生きるための働きを、生活を。

余暇をもてあそぶような魚釣りや山登りであっても、最近ではクラフトとかいう手仕事を趣味にするのも同じこと。園芸などはもっと真意に近いことで、何かを見つけるために遠くへ赴く必要もなければ、はるか縄文の時代から継がれてきた文化風習、そして伝統と比べるまでもない。まさに寂滅為楽、本当を生きていくための仕事には、これ以上ない楽しさがあり、人間の強さはそこに顕れる(顕れていた)。

なんだか急に、スマートフォンとか恥ずかしくなってきて。