能楽堂以外で観るのは久しい、と思ったが、昨夏の薪能も雨に降られていた。舞台は屋内に代わり、能「鞍馬天狗」と和泉流の狂言「三本柱」を大ホールで観たのだが、高崎の市民ホールの舞台はすこぶる小さかった。
ここで催されていたのが大蔵流山本家による、狂言二百曲全曲公演「狂言を観る会」。ああ、またしても気が付くのが遅すぎた。すでに四十八回目の公演ということで、もはや珍しい曲を残すのみとか(それはそれで面白いが)。そして毎回、山本東次郎の「お話」が聞けるというのだから、なんだよ。もっと早く誰か教えてくれよと。
東次郎師の著作『狂言のすすめ』は墓に持っていくと決めた本で(まあ、墓などないのだが)、その後に著された『狂言のことだま』は長らく絶版本だったが、昨年末に新編となっていたことも私は会場で知った。だからもう、誰か教えてくれよホント・・・・・・。
鎮魂され救われるのを主観する能とは相対し、笑うことで客観できるのが狂言だが、その「笑い」を含むことで軽んじられたりもする。もちろんそれは大変誤った捉え方で、あなた今、人のこと笑っているけれども、ほんとうにそれでいいの? 思うことない? あるでしょ、あなたにもそういうところが――。
思わず笑ってしまうことこそ、自分にも思うことがある確固たる証で、だからドキッとさせられたり冷や汗ものの狂言とは、実は「笑えない笑劇」なのではないか。「人間とは愚かしい生き物」と見定め、そんな愚かで哀れで滑稽な存在を真摯に見つめつつも、狂言はその存在を善しとする。そう、これは文学ではないかと、坂口安吾も自身の芸術論を展開した『FARCEに就て』で述べている。
笑いは泪より内容の低いものとせられ、喜劇というものが泪の裏打ちによってのみ、危うく抹殺を免れているくらいであるから、道化(ファルス)のごとき代物は、芸術の埒外へ投げ捨てられているのが普通である。
道化とは乱痴気騒ぎに終始するところの文学。日本の古典には優れた滑稽文学が存外多く残されている。一体に、わが国の古典文学には、文学本来の面目として、現実をありのままに写実することを忌む風があった。
そこで安吾は世阿弥の『花伝書』を引いて、能を演ずるに当たって演者は、たとえ賤しい女を演ずる場合にもまず「花」(美しいという観念)を観客に与え、その後に賤しい女としての実体を表現するように、という精神が日本文学には常に底に流れており、狂言は無論のこと、それを汲み取ることができるのだと。
言葉には言葉の、もっと純粋な領域があるはずである。説明の言葉は、文学とは称し難い。なぜなら、写実より実物の方が本物だからである。とにかく芸術というものは、作品に表現された世界の中に真実の世界があるのであって、これを他にして模写せられた実物があるわけではない。
『狂言のことだま』の冒頭にも書かれている。
現代の日本では物事を真面目に考えることが軽んじられています。自分自身と向き合うことを避け、人生の意味について深く思いを巡らすことを嫌い、その場の憂さを忘れさせてくれる刹那的な楽しみ、面白おかしく気楽なことを追い求める人々であふれ返っています。
言葉を軽んじ、浪費してやまない現代の文化は、選び抜かれ磨き上げられ、そして少な少なに用いられる狂言の科白(せりふ)とは正反対。狂言は人間を鋭く厳しく見つめるが、それを暴露したり、糾弾したり、責任を追及したりはせずに人間をそのまま慈しむ。なぜなら狂言は、人間の本質が「善」であると信じ、真に生きるために必要な問いかけを掲示するからであると。
苦しいことから目を背け、刹那的な快楽に自分をごまかしがちな世の中にあって、そうした風潮を断固拒否し、「人間とは何か」という問いに真摯に向き合う人に、私は是非狂言を見て頂きたいと願っています。
ファルスとは、人間のすべてを一つ残さず肯定しようとするものであるという安吾の見解と同じく、伝承されてきた日本の古典芸能の高い芸術性とその崇高な精神が、すこぶる小さな舞台の上で大きく花開いていた。これだよ、これ!