未乗区間を残していた高山本線で、名古屋までやってきた。ここから関西本線経由で松阪まで行き、名松線と参宮線、そして紀勢本線を新宮まで乗れば、JR東海の路線も完乗となる。私鉄の強い土地柄、都市部も集中しているので、満員のロングシート車両に悩まされることも少ないであろうが、出来るだけ早く都会の喧噪から逃れるべく、予定を変えて、入線していた快速みえ号に飛び乗った。しかし、これが快速の甘い罠だった。

乗換なしで伊勢路に入るその気動車は矢鱈と煤けていたが、指定席もあり快適そのもので、弥富、蟹江と、デルタ地帯の水郷を快い速度で横切っていく。休日の車内は観光客で賑わっており、隣席のイケメンも通過駅の度に、もうすぐ会えるね、早く会いたいなどと、伊勢におわす女神に向けて一々メッセージを放っていた。
そのうち車内検札があり、私は車内精算を迫られた。JR全線に乗車出来る切符を持っている私に、なぜ清算の必要があるのか。この快速号は、伊勢鉄道の線路を走るからだと車掌は説明したが、関西本線でなくては私は困る。そんなことは知らないと、五百二十円の切符を購入させられた。
隣席のイケメンは自ら申告して車内清算していたが、伊勢鉄道の線路を利用することに、何の障りもないらしい。確かに、乗客には目的地があり、公共交通には安全かつ快適な旅客輸送の使命がある。まあ、しょうがない。早めに到着した分、ゆっくりと昼飯でも食べようか。いや、松阪牛は晩に食べる予定ではないか。
河原田から津まで、伊勢鉄道の線路に入る快速みえ号の許しがたい悪戯により、河原田から亀山までの関西本線の未乗区間が残される。私はそのためだけに、JR全線完乗を目指す私は、またこのデルタ地帯へと赴かなければならないのか。降ります、降ります! 慌てて降車する私を、隣席のイケメンは不思議そうに眺めていた。
五百二十円の出費は確かに無駄だった。しかし、その無駄を問われれば、すべて水泡に帰す。君と私とでは、目的が違うのだ。無駄を生きてきて、これからも無駄にしか生きられない男が、近鉄四日市駅ではなく、残念な感じの否めない四日市駅で降車した。
乗り直して無事、亀山から紀勢本線に入れたが、入ったと同時に乗客も様変わりした。ロングシートで対面した女学生たちの大股は、あっけらかんと松阪まで開かれたままだった。松阪で乗り換える名松線とは、名張と松阪を結ぶ計画が頓挫した盲腸線で、伊勢奥津が終着駅。国鉄民営化の折り、廃線の憂き目に遭うところを住民運動によって救われたというが、目的を明確にしないまま、雲出川沿いに標高を上げていくのを地図で見る限り、久留里線なんかを彷彿とさせる。
中心地である家城で乗客は降車し、鉄道ファンらもここで降りた。タブレット交換が行われるからだろう。案の定、数寄者は一斉にカメラを構えたが、私は一人、悠然として南山を見ていた。目的が違うのだ。家城からは標高を上げ、意気を揚げて名松線の一両列車は渓に沿って登っていく。なかなか渓相の良い川で、アマゴのポイントも随所に見られたが、終点まで誰も乗車してこなかった。折り返し列車の中で、こっそりカメラを構えたが、日の落ちた家城のホームには何も写されていなかった。
入った食堂で、雲出川と宮川の流域で育てられた、処女牛だという証明書を渡された。名前は小梅ちゃんというらしい。気が滅入ってきたのは、健康的なまでにあっけらかんとしていた、女学生たちのことを思い出したからだろうか。翌朝、参宮線の終着駅、鳥羽から折り返した列車で途中下車し、外宮を参拝した。
多気で紀勢本線に乗り換える。新宮まで三時間ほどかかるが、普通列車はロングシートの車両のみ。嫌なら特急南紀号に乗ればよいのだが、東海の特急列車には惰性的な印象が拭えない。大体、特急とか新幹線とかに面白い乗客は乗っていない。訳の分からない偏見だと、自分でも分かっている。紀勢本線は入江とトンネル、また入江とまたトンネルとを出たり入ったりして、山海の辺土を繋いでいた。
まだあどけなさの残る青年が乗車してきたが、向かいのオジさんに面を切っていた。なんとも綿津見の子らしく、逞しい。感心しながら面を切り返してやったが、青年は貧乏揺すりの後、爪を噛み始めた。網元の坊ちゃんだったのかもしれない。しかし、普通列車のロングシートは辛い。そこがJR東海の嫌らしいところなのだが、シートの背に右肘をかけ、脚を組んで、上半身を思い切り捻って車窓に喰らい付いている、私の態度もなかなか尊大であるからして、いい勝負なのかもしれない。
新宮に近付くと、自転車をそのまま車内に運び入れる学生たちが増えてきた。サドルに跨がりながら談笑する者もいて、少々危なっかしい。旅立つ前に運転免許の更新をしてきたのだが、その際、こうした学生たちに向けて安全を指導する、安全協会への加入と寄付を呼びかけられた。五百円程度かと思いきや二千円も要求されて戦いた私を、反射板を贈呈するからと協会は宥めたが、パンダがいいかウサギがいいか、早く選べと責っ付いた。
接続する特急くろしお号が、パンダ仕様で入線していた。乗らずにはいられなかった。車窓の荒波に反して、しばらく車内は閑かだったが、白浜で前方に増連結されると満席近くなっていた。列車は俄に長い編成となったが、当然、連結部を通り抜けることは出来ない。しかし、どうしてか後方車両から乗車してくる客が後を絶たず、その開かずの扉の前で、困った困ったと、どの客も繰り返していたから、少し面白かった。
和歌山から特急くろしお号は阪和線に入る。紀勢本線の起点終点は和歌山ではなく、和歌山市駅。普通列車に乗り換えて、およそ五分で和歌山市に到着。もちろん、和歌山市を訪れた明確な目的などなく、困った私は、折り返しの紀勢本線に乗り直した。





