人生即遍路その弐

午後を過ぎてから降り出した雨が、菅笠を強く叩いていた。納経所には受付時間があるので、急いで歩く。道すがら、理容店の軒先で婆さんが倒れていたと言えば、嘘みたいな話だが、濡れながら倒れていたのだから、自分でも嘘だと思った

なんとか立ち上がろうと、雨傘を杖にして体を預けるも、やっぱり傘だから、ドリフのようにまた倒れる。笑っている場合ではない。お婆さん、さあ、この杖で!

「それはあなたのお大師さん・・・・・・」頑なに拒絶し、触れようともしないのは、私のお大師さんが千七百五十円の安価なものだからではない。仕方がないので、餅を喉に詰まらせた老人を介助するように、背後から腕を回して婆さんの体を起こすも、膝が立たない。「怒られるぅ、また怒られるぅ」

爺さんが怒るのか、息子が怒るのか分からないが、それでも婆さんは、やっぱり自分で歩いて、理容店に来たかったのだろう。実母の事が脳裏をかすめた。老人扱いを思いやりとして正当化し、思いを汲み取ることを忘れていなかったかと、婆さんの背中を抱き抱えながら、雨に打たれた。

「へんろころがし」十二番札所焼山寺への山路は、歩き遍路最大の難所とされるが、登山には覚えがある。まあ、思ったよりは大変かなと、途中の庵でそんな風に思いながら休憩を取っていると、登山道の入口で挨拶を交わした、若い女性お遍路に追いつかれた。「もう半分ですね」との言葉を不思議に思うより早く、彼女の金剛杖が枯れていたことに気付いていた。「二巡目です」

この先達もまた、別格二十番を巡ってきたらしい。あな恐ろしや、女性お遍路。聞けば、今夜は山一つ向こうのキャンプ場泊というが、ザックにテントの類いは見えない。さすがに外国人のようなことはせず(外国人の女性遍路は野宿もやるらしい)、コテージでの宿泊で、食事と入浴は近隣の神山温泉で済ませるとのこと。わー、アタシも同じ、同じ。楽しみだよねーレストラン。

しかし、アタシがたどり着いた山一つ向こうのキャンプ場には、サウナのような建物はあったが、コテージ棟はなかった。というか、およそキャンプ場らしくない民家の、その庭先に「C・A・M・P」と杭打たれていただけで、誰もいない。店、いや家の住人もいなかった。

夜半に車が止まったのは分かったが、翌朝も出てこなかったので叩き起こしてやると、どこぞのサウナのガウンを着た、サウナ好きの店主が、流行の寝癖をつけて玄関先に現れた。キャンプもサウナも一過性に過ぎないだろうが、長い歴史を持つお大師信仰と遍路旅、それを識る女性たちの逞しいことといったら。

 

四国三郎に合流する、鮎喰川沿いを歩いていく。峠を越えて、沈下橋を渡る。阿波徳島には中々いい川が流れている。渓流に藤の花がなびいていた。藤棚など偽物に過ぎないと、渓流人は嗤う。絶好の釣りシーズンだが、私は遍路を歩いている。残念にも思うが、アマゴ鮨はとにかく不味かった。徳島に入って早数日経つが、まだ美味しい物に出逢えていない。鰹も饂飩もよく饗されるが、どちらも微妙に本場の物ではなかった。

今日は三十五キロを超える長距離で、明日の四十キロの試金石にすべく、気合いを入れて歩いていると、中年男性のお遍路に追いついた。こちらも二巡目らしく、段々と「そういう人」しかいないのではないかという認識が、「別の所に行けない人」だと誤認する。正式にはお四国病という病人らしい。

「次の札所までたっぷり遠いので、ゆっくり行きましょう」区切り打ちで歩いているという今日の先達は、営業部長といった感じのお遍路で、齢は私と十ほど違うだろうか。思いがけず、楽しい長距離となった。

所謂お接待所には、必ず寄った方がいいと先達。このときは無人だったが、立派な遍路小屋には保冷庫があり、その中で小夏が冷えていた。道中気をつけてとの伝言を捲ると、反射するたすきや腕巻まで配されている。四国ならではのお接待に触れると、考え方を変えることが出来るという。ゆっくり遍路道を歩くことで見つけられる道中や、遍路宿での出逢いは、そのまま楽しみとなる。「その行程では、続けられませんよ」

自身も最初の巡礼時に失敗したという。しかし、それが二巡目の動機ではない。旅を終えた途端に世俗に塗れてしまうのは、スキルを話法と訳すような、あまり実を伴わない職種が故に。四国で誓ったはずの十善戒が、迷いや悩みを連れてくる。

 

まだ経が上手く上げられない私のために、「では一緒にやりましょう」と先達は、先達らしい落ち着き払った太い声で先導してくれた。

無上甚深微妙法、百千万劫難遭遇――

「あ、合掌礼拝が抜けてます」「・・・・・・ごほんっ」。

唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉――

「あ、真言は三返ですよ」「・・・・・・」。

再三の指摘を私に受けて先達は、「・・・・・・うち、浄土真宗なんです」と漏らしたが、悩みを悩みとして巡礼の旅に持してくるその誠実さに、私はまた打たれていた。