長く携わってきた仕事が、この年度末でようやく終了。その仕事の最初に付けられた若者が、結構な阿房で、「持って二日」というのが大方の予想だったが、最後まで残った二人のうちの一人となっていた。私は相当気に掛けてきたのだが、本人は別段気にすることもないようで、どちらかというと、いつも「ふんっ」的な態度で、私の厚意のようなものに報いてくれたが、まあ、しょうがない。阿房だからと諦めていた慰労会で、私の懐目掛けて飛び込んできたではないか。
「ありがとございましたっ!」
「この後は、どうするの?」
「やめますっ!」
「・・・・・・阿房だな、やっぱり。でも、頑張れ!」
妙に嬉しく、そして妙に寂しい春の別れ。それでもみんな、自分の地図を頼りに歩き出していく。私も自分の地図を完成しなければならない。一路、北を目指した。

新幹線内でずっと眠たそうにしていた、隣席の乗客が何処へ行くのか、私には分からない。同じように、私がこれから津軽の、しかも終着駅の三厩まで行くことを、隣席の乗客は知らない。フリー切符の類いを十数枚も使用して、ようやく東日本最後の乗り残し区間である、津軽線にたどり着いたことなど知る由もないが、数年前の土砂災害により、蟹田から三厩までの区間が代行バス運行となっていることは、知っているかもしれない。
肝心な所が「バス代行」ということは、何か。私は「バス」に乗りに、わざわざこんな所までやって来たというのだろうか。それならば相当に狂っていると思い至るも、そこは極楽浄土から最も遠いとされる僻地。バス路でも感慨は一入だった。
いよいよ海岸沿いに出ると、礼文島のバス路を彷彿とさせたが、果たして観光客を乗せているのだろうか。列車から代行バスに乗り継いだ乗客は少なくなく、学生の姿もあったが、かれこれ青森駅から二時間近くも経つというのだから大変だ。
乗る方も大変なら、動かす方も同じなのだろう。蟹田以北の廃線が決まっている津軽線の代行バスは運転が荒かった。荒いだけならまだしも、停車場を一切アナウンスしないから、不安になってくる。降ろしてもらえるのだろうかというよりも、連行されているような気分になるのは、海峡の先に大地が見えてきたからだと思う。
案内無くてもバスは時々路傍に停車し、乗客もまた無言で降りていった。住民を降ろし学生を降ろし、最後に残ったのは私と老婆だけだったが、三厩駅でも老婆はバスを降りなかった。

薄暮の中に駅舎だけがあり、レールはそこで切れていた。何をするのでもなかったが、本当に来られて良かったと、心の果てから振り返る。
誰もいない待合室で路線図を広げ、津軽線を朱で塗り潰す。東日本の鉄道網があかあかと盛り上がると、鶴見線という特異な路線が図の中に沈み込んでいたのを見つけて、私はそれを閉じた。
代行バスで来た道を折り返し、19時08分。蟹田から青森行の最終列車に間に合った。


