地震と転覆、そして謙譲

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。一斉に鳴り出した地震速報の直後、列車ごと長く揺さぶられた。何も出来ずに私は、クロスシートの肘掛けにつかまりながら祈る、というよりも後悔していたように思い出す。どうしてこんなことに、と

後発地震注意などという物々しい情報が出される中、予定していた下風呂温泉の宿泊をキャンセルし、状況が落ち着くまで震源地から距離を取るのが賢明であると、そこまでは良かったのだが、せめて内陸線だけでもやっていこうと、そういう性根が仇となった。

花輪線で大館を目指そうとするも時刻が合わず、だったら新幹線で一気に走って回避すればいいのだが、俺はそういうアレではないと、いつものように嘯いて結局、旧東北本線で八戸に到着した。およそ一時間の乗り換えに戦々恐々としながら八戸に降り立つも、穏やかな正午の陽に小雪が煌めく、不断と変わらぬ日常がそこにあった。

安堵した途端のことである。せめてもの救いは発車前だったからで、旧東北本線は高速度にて運行する区間だと何かで読んだ。

当然、運転は見合わせに。しかし、鉄道マンたちの素晴らしい仕事により、すぐに安全の確認がなされ、公共交通はその矜持を持って高校生を、高齢者を、昨今は外国人の労働者たちを目的地まで運んでいく。特に外国の方はこんなに地震が頻発する国へきてしまい、さぞ不安だろうと車内を見渡すも、あれ。

秋田や岩手の辺りでも、なんとなく注視していた。青森に入ってようやくヒジャブの女性を見かけたと思ったら、フェルト生地のマフラーなのか何なのか、それを何というか知らないのが私の不明なところだが、頬っ被りにした津軽のおっ母さんだった。

西方浄土から最も遠い地方は極寒の地で、雪の山などにも遊んだりしている私であったが、そんなのは調子のいい寒さであって、日常の中にある厳とした寒さ、これが風土を鍛え人間を育てるのだと打っ遣られた。

三沢の先まで徐行運転を続けた青い森の列車が、野辺地に向かって一気に速度を上げた。逃げるように、と不謹慎にもそう思ったのは、私だけではなかったはず。陸奥湾越しに下北半島を望む景観があまりに寒そうで、写真を撮るのを躊躇ってしまった。

 

なんとか鷹ノ巣に到着することが出来たが、内陸線は列車脱線、そして転覆による運休を告げる衝撃の告知が、駅舎の戸にさらりと貼り出されていた。て、転覆って・・・・・・。大湊線、そして八戸線をやりにきて、地震に阻まれた。せめて未乗区間を微妙に残す内陸線で、秋田を一気に縦貫するという発散を目論み、訪れての転覆である。登山時の山中での停滞よりも恨めしい。

あまり面白くない奥羽本線のロングシートで、白神山地を眺めながら上り線についた。色の無い今は平原に見えるが、秋には一面を黄金色に埋め尽くす豊かな穀倉地。なるほど秋の田、かりほの庵のとまをあらみ、大変美しい名前である。当たり前のことは意外に気付かない。酒の田、庄内もいいね。それに比べて新潟などというのは、なんだか近未来的で禍々しい。

どうでもいいことを考えつつ追分まで来ると、防砂林の松がコの字に持ち上げた腕を、コの字に曲げた腕で支えたボディービルダーのようなポーズを決めていた。私はもう一度決起して、大曲行きに乗り換えた。田沢湖線、これをやるしかないと。

田沢湖線は大曲から盛岡まで、秋田新幹線と同じ線路を走る。よって、未乗区間ではない。が、秋田新幹線に乗ったからそれでよし、としてはいけないような区間である。どうしてこんなことにと、よくよく考えてみれば、それこそ私の人生である。八戸で地震に遭うも、内陸線に乗る前に生き長らえたではないか。

新幹線乗車時には気付かなかったが、田沢湖線には意外と駅舎があった。それも小さな駅が多く、そのホームに大きな新幹線が通過していくというから中々滑稽である。いつでも我が物顔で先を急ぐ新幹線を、田沢湖線はどうぞお先に、お先にどうぞと譲る。

自未得度先度他、とにかく路を譲る。謙譲は虚であると言わんばかりに譲りまくるから、盛岡に着いた頃には日が暮れていた。