人生即遍路、巻第六

室戸岬で方向を変えて、土佐湾を臨む。台風の面影は、そもそもあったのだろうかというほどに、穏やかな内浦が常態として燦めいていた。早朝から集落の中を通る遍路道を歩いていたが、人の姿が見られない。洗濯物があり、炊事の音がするので営みは見えるが、色褪せた布地に溌剌とした瑞々しさはなく、為す術もないようにして、そのまま潮風にカラカラと干されていた。

ここまで通り過ぎてきた学舎は、軒並み廃校となっていた。子供の姿はおろか、若者の影すら見えない。古い家屋を修繕していたのは高齢の大工で、それで壮齢のお遍路は、挨拶を交わしただけで歩き去っていく。高齢化率が全国第二位の土佐高知、中でも室戸の人口減少が最も深刻だという。

第二十六番札所、龍頭山金剛頂寺への遍路道は急な山路で、小さなマムシを踏みそうになりながら駆け上がると、山門へ続く石段の前に出た。駐車場の方からきた家族が汗だくの私を見て、歩いてきたのかと問いかけた。そうだと応えると、うら若い娘が、若干臭そうにしてだが、諸手を広げて扇いでくれた。

逆に娘の母親は、私から放たれる熱を「歩くパワースポット」だとして、自らの方へと招き入れた。まだ匂うのに、こんなことをしていて、果たして許されるのだろうかとも思う。

吉良川の町並みで、白壁とそれを守る水切り瓦の用途を確認したが、暴風多雨地域とは到底思えない静穏の中、空は天高く晴れ渡っていた。だからといって、玄関から窓という窓のすべてが大開放とは、少々不用心である。それが客の荷物を預かる宿泊施設なら、尚更である。頃合いよく遍路宿に到着するも、居間にも台所にも、風呂場にも厠にも、そこには誰一人として居なかった。

玄関先で待っていると、大きなレジ袋を抱えた家主が戻ってきた。惣菜弁当の容器がいくつも見えており、嫌な予感を覚えさせたが、当人は陽気な声を大きくして近づいてきた。

「キムさん? アメリカの、キムさんでしょ?」

私は日系亜米利加人ではなかったが、時に遍路宿は、老若男女よりも国際色の方が豊かな場合も多く、賑やかな一夜になることが少なくない。この開けっ広げの遍路宿からは、その典型という感じが、なんとも風通し良く伝わってくる。

私は改めて名を告げ、電話で予約した通りの二食付きで、一宿の願いを乞い、さっそく風呂場と洗濯場を尋ねるも、湯が張られていなかったのは先に確認した通りで、今夜はそれどころではないらしい。現に宿を求める電話が鳴り止まず、何語なのか分からない言葉で、家主は応対に迫られていた。

「だから今夜は弁当だ」と家主は投げやりに言いつつも、洗濯だけは「アタシがやったげる」と聞かない。お接待のつもりなのかもしれないが、だとしたら、何より先に風呂を沸かしてほしいものだが、家主は近隣の入浴施設への訪問を促した。自転車に乗っていくよう勧めてくれたのが、せめてもの慰めになった。

頼むから洗濯物、特に金剛杖や納経帳には絶対触れてくれるなと言い残し、ペダルを漕いだ私を呼び止める声があった。

「待って、鈴木さん! 自転車の鍵、鍵だけは絶対にかけないで!」

鈴木と呼ばれたお遍路は、一旦自転車を降り、試しに施錠してみたが、何の問題もなくスムーズに鍵は掛かった。どういうことなのか、さっぱり訳が分からなかったが、混沌とする中でも鈴木は、落ち着いて考え始めていた。どう逃げるかを。

入浴施設から戻ると、遍路宿は外国人のお遍路やら何やらでごった返しており、本格的にカオスと化していた。流暢に独語を話す、若いお遍路がいれば、やけに男前のお遍路もいる。夫婦ではないという男女には、遍路というより失楽園へと落ち延びていく概があったが、それでも各々の遍路話に賑わいを爆発させていた。

日も傾き、家の中で藪蚊が活発に動き出したのは、やはり窓を開放しているからだろう。耳元で、その小さな声に気付くも既に遅く、腫れ上がる寸前の横っ面を叩いたところで、間に合わない。両頬に顎、眉尻、おまけに額までボコボコにして、私の耳元をまた、ぷーんと飛び立っていく。その小さな声がいつしか、ありがとう。これでわたしはたまごをうめます。またらいねんと、懇ろな御礼に聞こえてくるのだから、遍路とは不思議なものである。

そんな覚りは他も同じようで、独語を話していた若いお遍路が真剣な顔をして、近年、あの室戸岬から台風がことごとくそれていく謂れを口にしていた。

「あれね・・・・・・、青年大師像を建立してからなんだって!」

おお、すげえ。やっぱお大師さんすげえやという響めきを、チン、と残念な鐘の音が制した。そういえば、夕餉の始まる様子が微塵もなかった。電子レンジで弁当を温暖化していたのは、やけに男前のお遍路だった。聞けば、この遍路宿に連泊しているという。

「たぶん、勝手に食っていいんすよ」

なぜ連泊しているのかも大変気になるところだが、家主の姿が見えないのが、それにも増して気になるところ。入浴施設から帰ってこなくなった、外国人のお遍路(おそらくキムかと思われる)を探しに出たままだと笑いながら、二つ目の弁当に手を伸ばしていた。その無防備なノースリーブの露出部には、虫刺されの痕跡はなかった。

「アンタたち!」

とうに自室、もちろん外国の方との相部屋で、アイマスクをかけ耳栓を詰めて、横になっていた私の、精神の限界を前に、遍路宿の家主がその大きな声で制し、そして宥めてくれると信じていた。

「これ、飲むかい?」

ワーと、また叫ばれた混沌を、私は諸手で抑えたが、眼を瞑り耳を塞いだ脳裏には、風呂場の隅で貯蔵された、正体不明の自家製果実酒のことが思い浮かんでいた。少しだけ、含み笑いのような小さな声が、私から漏れていた。

明日再会できるお遍路は、この宴の中にはいないだろうと。