葛藤の妖怪化

巡回していた「妖怪百鬼夜行展」に山形で間に合ったが、夏休み前にもかかわらず、大人たちによる大盛況で、聞けばシールの配布の曜日なんだとか。おいおい、そんな子供騙しで朝から行列か、ボロいな人間社会と、水木まんがのような科白を吐き捨てて、受付で渡されたシールを一瞥するや、おお! 竹切狸! これまた水木まんがのように飛び上がって歓んだ。

爺さんが死んで独りぼっちになった『河童の三平』の三平が、ふて寝しながら「おやじのばかやろー」と切なく吐き出して、悲しみのうちに寝落ちすると、次のコマでは狸が寄り添うようにして、三平の隣りで寝ている姿が描かれる。

描かれたのは自然観というか、飽くまで孤立させないのは、自然という仕組みの中に、一つ一つの生命が存在していることを明確にしているだけでなく、活殺自在の運命をも、このイタズラ狸が主人公の人生を紆余曲折にして、面白いものに仕立て上げている。

自然の利益によって、面白おかしく生かされている以上、孤立は絶対に有り得ないのだが、分かりきったような割り切った現代の思考は、その自然摂理すらマネージメントしようと試みる。日本自然保護協会の提言には、

野生動物の運命を左右するほどの大きな科学技術を手にした人類は、人為的な野生生物の絶滅を回避するとともに、将来の進化の可能性を含めて生存しつづけることが可能になるよう生態系を管理してゆく責任を有している、という考え方が受け入れられつつある。また、人間は神のスチュワード(執事)として、生態系や野生生物を保全する責任を有しているという考え方もある。

とあり、なんだかおこがましくもあるが、せめてその「管理」をスチュワードシップと訳し直し、態度を改めるよう提言している。そもそも見えないものを妖怪として見出してきた、そんなに遠くはない昔の人がみんな知っていたことを思い出さなければ、妖怪はおろか、神を見ることもままならない。

竹切狸シールと図録を携え、展覧会のショップ内をいつまでもウロウロと――。

狸のぬいぐるみの前を、何度行き来したことか。知命がそう遠くない齢の男に、もし娘がいたとしたら、多分ぬいぐるみを欲しがる歳ではなかろう。しかし孫にというのには、うーんまだ若すぎるか。その狸のぬいぐるみがどうしても欲しいのに、どうしても買えない。

眼には見えない葛藤が妖怪化するのは、もはや時間の問題かと。