「おー、ドーテー」一端の社会人、それも大物に挑む一廉の釣り師に向かって、童貞呼ばわりとは何事か。その呼び声の方に、キッつと鋭く眼を剥いて睨みを利かすも、鼻で笑っていたのはなんと女子高生で、見れば唇にでっかいピアスが刺さっている・・・・・・。戦慄するも、釣り師なんぞ端から眼中にないようで、女子高生のその熱視線に灼かれていた男子学生はというと、童貞どころか全身にタトゥーが彫られていそうな、破落戸だった。
あな恐ろしや。これが日本の高校生(ローカル線の)。今日はその中でも「枝線」に乗っている。

高崎で横川行きの信越本線に乗り換えた。上越国境を貫いた清水トンネルの開通に伴い、碓氷峠を越えて行く信越本線は越後路を上越線に取って替わられ、遺構となった。本線自体も切り売りされ、上州に残されたのは枝線と化していたが、それでも本線の称号を冠する。
終点の横川まで碓氷川の緩流に沿って走る長閑な路線だが、景観は悪くない。赤城山に榛名山、あのとんがりは浅間隠山、そして盟主の浅間山に奇岩で知られた妙義山までの山容がパノラマに広がる。上州に海は無いが、山々からの養分を存分に溜め込んでいるのだろう。肥沃な土地で多くの野菜が育まれる。
人間もまた同じであると、折り返しの上り信越本線の列車が、下校してきた高校生たちをはち切れんばかりに詰め込んだ。

日光線は、御神体である男体山の手前で慎ましく停車した。日光連山を迂回するのさえ畏れ多いといった謙虚さが伺え、心証をよくする。白根山はすっかり冠雪していたが、男体山はまだちょっと恥ずかしそうに衣替え中と見えて、意外と初々しかったが、この山が登ると極めて難儀な山である。駅舎に降りて仰ぎ見て、それを思い出しては一つ、深呼吸とも溜息ともとれる息を吐き出して、すぐに折り返しの列車に乗り込んだ。
しかし、雲一つなく澄み切った晴天である。先週末は東北の、それも結構北の方にいたので嘘みたいな天候だったが、別に不公平だとは思わない。雪国の人は雪を、恵みであると認識しているのだとかなんとか呟きながら、大谷川なんてのもあったなあと、早くも春の釣りのことで頭を一杯にしていた。
宝積寺駅の宝積とは、宝積経のそれだろうな。「人を守りて己を守らず」座右の銘にしたのは原敬で、原敬記念館にも熊が出たというのだから、やっぱり不公平なのかもしれない。陽光に照らされた宝積寺駅からニョッキと伸びた枝線、烏山線は河川に挟まれた氾濫原で、それ故に肥沃な大穀倉地の中を走るローカル線。七つの駅舎に七福神をなぞらえており、なんだか縁起のよさを感じさせたところで、あな恐ろしや。童貞呼ばわりである。大体、時刻はとうに十一時を回っていたが、これから登校なんですかね・・・・・・。

かの女子高生と目が合ったら「痴漢」として通報されかねない、通報されなくとも示談として金銭を要求されるだろう。私は車窓の風景に集中した。集中したが、車窓というのは集中したから見えてくるという訳ではないのだ。ただ景色を眺める、そこに私を挟まず、ありのままを見る。写生というよりも、もしかしたら座禅、に近いのかもしれない。只管打坐、ただ座るように、ただ鉄道に乗る。そうして初めて車窓は展開される。
山があり川があるから、田があり家がある。そしてそこに人がいる。やさぐれているかもしれないが、うらぶれてなんかいない。都会にはない本当の逞しさこそ、肥沃な大地に育まれた本来の力である。だが、スリッパで登校してはいけない。サンダルでもダメだが、アナタのそれは完全なるスリッパではないか。
それから、代々脈々と受け継がれてきたアナタの体は、それ故にアナタだけのものではない。だから、傷を付けてはいけない。大切に、大切にしなければならない。
キッつと鋭く眼を剥いて、私は釣り師としていや大人として、彼女らに伝えておかねばならないと奮起したのだ(そのときの私の顔は童貞というよりも、処女のようであったと思われる)。
