野営の研究

峠を越えると、そこは今も変わらず秘湯の郷だったが、五色温泉はキャンプ場になっていた。オートサイト中心の、サウナまで併設された俗っぽい感じって、どうなんでしょう? でも温泉には入り放題、おまけに安価ということで、躊躇いつつも幕営することにしたのだが、すっごい快適でしたー。

立ち寄ったマーケットで見つけた津軽の嶽きみは、皮付きのままバーベキューグリルの中で蒸し焼きに。スモーク風のローストチキンはインチキで、特売肉が焼ける炭火の上に水に浸したウッドチップを焼べただけ。一緒に燻されていた飯盒は、燻されることなく炊き上がった。半分は朝食用にして残りをアルミカップによそい、ホワイトソースとチーズを乗せて焼いたらドリア、って柄にもない感じですから、酒は福島と山形に跨がる酒蔵の磐城寿にしましたよ。

キャンプ場が吾妻連峰の登山口にもなっていて、高湯温泉から姥湯、滑川温泉を経由して白布温泉を目指した、温泉大縦走は大失敗だったが、ありありと楽しく思い出された。

先日の南アルプス山行の失敗から見えてきたことは大きかった。また羅臼岳での事故も大きな衝撃で、昨年私も盆時期に登っており、事故のあった標高の辺りには蟻がたくさんいて、それを食べにくるから注意と言われた登山道に、羆がいた。おお、さすが知床、フツーにいる。知床に限らず、山には熊がいるのがフツーなんだけれども。

花鳥風月を愛でるような態度で野生動物に接する人は、逆転していることに気付けない。都市集中による里山の荒廃は、そのまま人間社会の後退を表し、あっという間に広がった藪の中から「人間が見られている」ことを知らない。

愛らしいものを愛らしく写したものに芸術性はなく、動物写真家の作品の中から読み取るべきことは警鐘で、自分勝手に愛せとも、自分勝手に殺せとも言っていない。もはや温暖化だけに非ず、鹿の越冬は道路にまかれた塩化カルシウムによるところが大きいように、人間中心の営みを本気で改める必要がある。だから何が大切なのかをよく見るために、山や森へと誘われているのに、どうして急いで駆けて行ってしまうのだろう。

源流域でバンバン火薬を鳴らす釣り人に重なるのは、八ッ場ダム工事の発破音。「出て行けー、おまえら出て行けー」と、その発破音は繰り返し住民を苛んだ。火薬の使用は身を守る行為であるかもしれないが、釣り人としての野性をまったく失っていることに、恥ずかしくならないのだろうか。この先は危ないと、自らの野性が感じられることを何より重んじたい。

倉庫を新調したときに、懐かしい大型シェルターが発掘されてからというもの、キャンプ熱が再燃中なんです。こういうのが今また敢えてカッコイイかもしれないと、秋の爽やかな風に吹かれ、皆でわいわい、ゆったり楽しむ姿を想像しています。