怒りや悲しみを持った般若よりも、難しいのは純粋な登場人物を演じること。だから能では自然景観の描写が謡われるのだと、初回ゲストの能楽師が応えてくれた。舞台上に風景を立ち上がらせることが出来た観客は、なるほどそこに純粋を見ていたのだ。そも、なぜ山河や野花を見て感動するのか、なぜ人間は本当にきれいなものを見たいと希求するのか。それは、純粋を取り戻したいからではなかろうかと。
木ノ下裕一さんによる新たな能楽講座が始まり、第一回から大変面白かった、のは当たり前。古典はいつでも新しいと断言したのは氏ではなかったが、真理が一つであるように人間もまた一つなのだから、長く読み継がれてきた確かな古典は時代時代での解釈により、いつでも新しく立ち上がる。まさに氏の解釈が現代において新しい。
水や空、空行くもまた雲の波の――、能「屋島」では、船軍が打ち合う烈しい刀の光、鎧兜の影と合戦の叫喚などが謡われるが、刀の光は夜明けに輝く波に変わり、敵と見えていたのはカモメの群れで、鬨の声も浦風に揺れる松の音となって幻想は立ち消える(自然景観が立ち上がる)。
改めて、仕舞を舞って見せてもらってワンコイン。こ、これは・・・・・・。
好きな世阿弥作のもう一曲として取り上げられた、能「班女」。物狂いの女の行動には連続性がなく、まるで幼子のように視線が急変し、脈絡もないままで次の動作に変わるといった能の描写は、少なくして実は非常に細かい。だからそれが分かると大変深く、登場人物の心理面に入り込むことが出来る。
識るほどに眠たくなりそうで、とんでもない、眠ってしまうなんてとんでもない。眠れなくなるほどに照らされてしまった。