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好きが高じて、自宅の納戸で小さな樽に酒を仕込んだ。二冊の指南書と数キロの米と米麹。酵母は酒粕から培養し、水は山から清水を汲んできた。
麹の酵素が米のでんぷんを糖化し、その糖分を酵母がアルコールと炭酸ガスに分解して酒は造り出される。発酵強く、そして長ければ、酒はキレの良い辛口になるという。袋吊りにされた醪(もろみ)から滴る一滴は、清酒というその名を覆すほどに淡い山吹色を纏っていた。
飲みやすい酒は数在れど、骨身に染みるような本当に旨い酒はそうはない。趣向を凝らしたのはどれも外見ばかりで、嫌に香っては無色に甘い。食事に合わないキレの悪い後味に、箸も重たく揃って動こうとしない。
一升瓶の首掛けに「燗が冴える純米酒」と掛けられていた酒があった。
湯煎でじっくり燗を点けてみると、その酒は舌の上いっぱいに深い味を開いた。純米酒の力強いコクは驚くほどまろやかになり、豊かな風味が爽やかに鼻腔を抜けていく。思わず口を衝いて出た旨い!の言葉の後には、何の憂いも残さずにすっかり消えていた。
発酵強く、そして長ければ、酒はキレの良い辛口になる——
首掛けをもう一度よく見てみると、今度は造り手の想いに杯を傾けさせられた。
「このお酒は三十五歳以上の人生の機微が分かる方に」
一日の最後に酒がある齢になると知ることがある。男の世界も女の世界も、やっぱりそんなに甘くない。