縦走泉 苗場山

歩いてしか行けない温泉というのはそのほとんどが無積雪期という季節の条件を伴うので(夏は魚釣りで忙しい)、長年の課題となっていました。危険を伴う山域もあるので、なるべく避けたいのが単独行。登山を趣味としていたヤマノ主任をこの山行にうまく誘い出せたのは、目的を百名山や二百名山などの名峰登頂に偽ったからでしょう。

魚釣りのオフシーズンに考え出した妙案は温泉から温泉へと縦走する、温泉ファンによる温泉ファンのためのちょっとタフな登山行。基本的に反対側の温泉をゴールとするため自家用車の使用が制限されてしまうのですが、それ故に鉄道に路線バスにと、登山地図に重ねて広げた時刻表がその行程を複雑に、そしてより楽しくしてくれます。目的が偽装された旅のしほりを「縦走泉(重曹泉ではない)」と題して渡しました——。

突然「山に登ろう」だなんて、珍しいことを言い出したから怪しんでいたけれど、渡された旅のしほりは目的が明確に読み取れる内容で、大体、始発の上越線から缶ビールを飲み出しているから間違いない。朝練に向かう学生たちの健全な目も気にせず、躊躇なく二本目に取りかかろうとしている。

越後の名山、苗場山のふところ深くに湧く赤湯温泉山口館はまさに山の温泉で、路線バスの停留所から歩いて4時間。翌日は大渓流清津川を遡り、昌次新道を経て苗場山山頂へ。そして信州秋山郷の小赤沢温泉に下りてくる、コースタイムは8時間35分のロングトレイル。到着が遅れればゴールの温泉に入れないばかりでなく、退路をも断たれてしまう長い行程だったが、彼は言った。大丈夫だと。最近は仕事帰りにスポーツクラブにも通っているから大丈夫とのことだが、やっぱり普段の彼からは登山のとの字も感じられず、ダイエットメニューで漕がれたエアロバイクの効果にも不安を覚えさせられていた。

 

「ちょっと飲み過ぎたね」

登山口でいきなりアルコール臭を漂わせて、そうつぶやいた登山者とはたぶん世界初なんじゃないか。路線バスを降ろされると、すぐに始まった登山道はいきなり激しいアップダウンの連続で、ザックを担いだ背中に汗が滲んだ。日は陰り、秋風も穏やかに涼しくて、実に登山日和。気持ちよく発汗して山を歩いていると、生きている感覚というのか、なんだかそういう感じの充実感に満ちてくる。しかし、先の酔っ払いはというと、だんだん顔から表情が失われていき、なんだか不気味に口角を上げた口元がそのまま閉じることなく開いている。だ、大丈夫かと声をかけるも、やけにデカいザックをひどく重たそうにして、無言のまま顔の前で両手を交差した。そもそも今夜は山荘小屋泊だからテントはもちろん、そんなに荷物は要らないはず。自炊をするから互いに分散して食材は担いでいるが、乾杯のビールは俺のザックに入れてある。燃料か何かが重いのか?

「一升瓶」

ダメだ、こいつ——。

 

下山してきた登山者がしみじみと回想した野天風呂の話に気力を取り戻した。赤い湯もさることながら、湯浴み中にのぞかせる紅葉の赤が何より素晴らしかったという。赤湯温泉につながる登山道は上げてきた標高を最後は渓谷に向かって下げていく。山頂はもちろんだが、深い山中に入っていくのも山にきたという実感がある。いや、山を強く感じるのはむしろ後者のほうかもしれない。少し巻いたら少しだけ動く、一升瓶を担いだゼンマイ式の玩具を引きずること4時間。ようやく清津川の源流が姿を現した。

 

川の水圧により湯温を左右されるという赤い湯は思わずぬる湯だったが、足下から自然湧出する源泉とすぐ脇を走る渓流の躍動に登山の疲れは完全に癒やされた。混浴野天の玉子湯に半露天の薬師湯、鉄分が少なく澄んでいる青湯にと贅沢にも三つもある山の温泉に、歩いてきた分以上の価値を見出すのはあまりにも簡単なことだった。

息を吹き返した彼はなめるようにして泉質表を読み、丁寧にカメラにも収めた。湯を両手ですくい、嗅いでみたり、少し口に含んだりもした。目を閉じて、何度も深く頷いていたその様は、やっぱバカだ——と。しかし、静かに山の湯に身を沈めていると、歩いてしかこられないという不思議な贅沢を考えさせられた。もっと豊かにと追い求める現代に突きつけられた矛盾がその生き方を問う。それは今とても真剣に問われているように感じる。

 

まだ暗いうちからヘッドランプの細い灯りを頼りにして清津川を遡ってきた。山頂につながる登山道に取り付くと、明けてきた太陽に山肌が照らされた。苗場山の全貌がいよいよ浮き上がると、二日目の酔っ払いに絶望を与えた。急な登り坂の登山道は彼方に向かって続いている。最後には岩稜帯の鎖場を登りきらなければならない。ブナ林の葉はとうに落ちており、冬へと向かう寂しさと厳しさが長く続いていた。

なんとか山頂平に這い上がってくると、まるで待ち構えていたかのような冷たい雨風に吹き付けられた。滑る木道を逃げるような足で駆けていく。夏には湿原の池塘が輝き、高山植物で咲き乱れるという楽園がどうして厳しく、今は目を開けるのもままならない。レインウェアのフード越しに当たる雨音がいっそう強くなると「○!※□◇#△!」憔悴寸前で訴える彼の声をもかき消した。

分岐を示す道標の前で彼は散々な顔をさらに大げさにしてから、時計をみる仕草を強調した。右は山頂へ、左は小赤沢温泉への下山路の分岐で、左に向いてそのまま歩き出した彼の腕をすぐさま優しく掴んで止めた。やると分かっていた。

「チッ!」

打たれた舌の音はハッキリと聞こえたが、聞こえないふりをして山頂へたどり着いた。

苗場の山頂は山頂らしからぬそれで、ノー眺望

泥だらけになり、まさしく転がりながら下りてきた小赤沢の山頂直登ルート。すれ違った山ガールたちもすごい不機嫌な顔で登ってきましたが、下るほうはさらに難儀で閉口するばかり。誰がこんなルートを選んだのだと、ヤマノ主任に詰め寄ったところで特に返答はありません。命からがら無事の下山、だから重厚な小赤沢温泉落陽館の湯はもう言葉になりませんでした。

「次はどの頂きに?」

飯山線へ連絡する路線バスを待つ合間に、笑みを浮かべて話した彼の目をまじまじとは見られませんでした。だって彼は、この旅の本当の目的を知りませんから——。