こころの良寛

降り続いた秋雨に川は増水し、川底から湧いて出る尻焼の名湯に観光客の姿はありませんでした。しかし、それはそれで、川縁に建てられた湯小屋(無料の共同湯)を独占して堪能できるのではないかと降りて行くも、残念。先客の老人が一人、瞑想しているかのように目を閉じて静かに湯浴み中でした。小声の挨拶は川流れの轟音にかき消されたのか、私が訪れたことに老人はまだ気が付かない様子。そのまま静かにかけ湯を済ませて、波立てぬようにゆっくりと湯船へ体を落としました。

じんわりと体を包み込むような湯は適温で、首筋から肩までの緊張が一気にほぐれていきます。思わず漏れてしまった深い声を連れ戻すようにして口元を手で覆いましたが、それでも老人は目を閉じたまま微動だにしません。そういえば、大きく開いた口からの吐息も立ち上る湯煙に動じていない。死んでる——のかと、ちょっと本気で心配になり、老人の顔を覗き込むと同時に、カッとまぶたが上がりました。

「おぉぉ!」

老人は大きな声を上げ、飛び出さんばかりに見開いた眼球を点にして大きくのけ反りました。(心臓が止まるかと思った)私もつられて湯船で大きくのけ反り、両者の上げた湯のしぶきが激しい音を立てて川流れの轟音を突き破ります。

いつの間にっ!け、結構前からいました!と瞬間的に構えて見合うも、そこは湯の中で裸の同士。お互いに冷静を取り戻すと、どこから来たのか、これからどこへ向かうのかなどの和やかな会話が始まり、すぐに打ち解けていきました。こういった一期一会の楽しみも共同湯ならでは。大自然に湧く、恵みのいで湯で丸裸の人間に、例えばどうして肩書などが必要でしょうか。

しかし、歯の抜け落ちていた老人の発音はそれゆえに濁されて、非常に聞き取りにくい。大雪山で四回死にそうになった話や石狩川の急流に回転しながら流された話をようやく聞き取ることができると、耳を寄せていった体は触れてしまうほどに接近していました。今は主に残飯あさりをして生計を立てているのだと老人は続けます。

「悟りを開ちまちた」

悟りを、開いたのだと、ものすごい笑顔で開かれた口の内に歯はほとんど残っていませんでした。温かい湯の中でもぶるっと震えてしまうような強い悪寒に襲われると、一瞬で青ざめていくのが分かりました。私は慌てて湯船から飛び上がりました。

 

乞食——!

脱衣所もない湯小屋の隅で焦って体を拭く手がもっと早くなり、後ろからの声を遮ろうと努めます。もう行つてしまふのかと、寂しそうな声の方を決して振り返らずに、私はほとんど濡れたままでシャツを羽織りました。「最悪だ」と逃げ帰る最中、声にも出したかもしれません。湯の染み込んだ手拭いがとても汚らわしいように思えてくると、ついさっきまで鼻をまるく開いて湯の香を存分に吸い込んだ肺の中までもが不快に。どうして行つてしまふのかと、細くなっていく声を咳払いして振り切りました。

 

——あれは良寛ではないのか。

橋の上まで駆け上がってきた私を最後に呼び止めたのは、内なる声だったのでしょうか。あれは良寛ではないのか。あれがおまえの探し求めていた、良寛ではないのか——。

老人も若人も、はたまた幼子だって皆同じ一人の人間。そして、物乞いだろうと聖人君子だろうと、いで湯の中で裸の同士に果たしてどんな違いがあるというのか。乞食に徹して清貧に生きた良寛は、すべてを捨てることで人間の本質を見出せたのではないのか。本当の汚れがどこにあるかを自覚する、それが自己確立への大きなヒントだと気付いておきながら、なぜに私は逃げ出してしまったのか。

 

「悟りを開ちまちた ♪」

老人の、ものすごい笑顔が今も脳裏に焼き付いて離れません。要らない物を纏って入浴したところで、到底きれいになれるはずもありません。悔恨の思いが、川流れの轟音よりも大きな音を立てて下って行きました。

 

霊湯「にが湯」万座温泉豊国館

秋の連休は近場の万座、草津温泉でゆっくりと。連泊後の六合温泉郷や沢渡、四万温泉での仕上げ湯というのがいつもの湯治コンプリートコース。酸性泉で荒れた肌を整えるだけではなく、非日常の旅情もじんわりとフラットに戻していくのが仕上げ湯のこと(これ重要)。何度訪れてもやっぱり良いですね。