もののあわれの拡散希望

○○ナンバー××−××、白色のSUV車。三日間の行程、下山せず二日経過。携帯電話、不通(圏外と思われる)――轍鮒の急、遭難の緊張が走る。しかし不思議なことに、同時に膨張していたのは渾然一体への憧れだった

渓谷を流れる水音に聴覚が慎めば、森閑を見つめる視覚もまた慎みを覚える。自己を忘れれば万法に証せられるというように、太古の自然にそのまま沈潜することが釣り人、岳人の本望。無論あってはならないことだが、山渓に臥す。「もののあわれ」は本懐の中にあるのではないか――。

脊梁山脈で弾みを付けてきた南風が伯耆富士の崩壊を目論むも、中国山地きっての名山を前に潔く散ってゆくのが見えた。山頂は強い風に吹かれているだろう。

永久に続くかと思わせた急坂を登りきると、ダイセンキャラボクの群落が広がるはずだった。美保湾を望むどころか数歩先の木道の辺だけの視界しか与えられず、吹き荒れる風の正体を見るに止まっていた。カメラを下ろし、吹かれるまま佇立していた私を下山中の登山ガイドが憐れんだ。「風のかたちが見えるから」と、文学的に。

だが、焦点の絞り方を変えるもその象は露出しない。そのうち飛ばされた帽子にピントが合っただけだった。

 

「おーい」と淋しい人が呼べば、「おーい」と淋しい山がこだまする。中央アルプスの南端に位置する恵那山では「富士が見えた」と喜ぶ声が行き交ったのを真に受けて、山頂の展望台に上がった。が、何の展望もなかった。

それどころか、焼きたてだったパンがザックの中でぺしゃんこに潰れていて絶望。絶望をよそに隣のベンチでは初老の男性が奇怪な小躍りをしているから立ち直れない。ブンブン虫に集られまいと小刻みに揺れる夫を尻目に細君は、いかにも「だらしがないわねえ」という面持ちで吐き捨てて、今度は握り飯ごとを吸い込んだ。「阿!」

ガリッと厭な感じが私の聴覚にも残ったが、細君といえば気にする様子もなくブンブンと咀嚼し富士を、富士を眺めていた。ああ、もののあわれ。

峠を幾つも越えてゆく古の道は、産道のように長かった。大山での疲れを隠しきれず、嫌な汗が体に纏わり付いて熱を発散させてくれない。上気した私の猿顔を追い越した登山者が二度見したから、やだ恥ずかしぃ。

本望だ本懐だと格好つけながら、恥も外聞も捨てられないのに覚悟などあるはずもなかった。呼吸が荒くなり意識は遠退き、次第に感じた体の痺れは危機に陥る前兆。行動不能、すなわち「遭難」の現実が私を苛んだとき、ザックの雨蓋から窮鳥の鳴く声が聞こえてきた。電波を、電波を捕らえたのだ。これで最悪でも救助を要請できる!ヘリコプター捜索の有料会員でホント良かったぁとしみじみ端末を開けば、滅多に送られてくることのない異性からのメッセージを受信していた。

遠遠しい連絡は飲み会の誘いか。それとも唐突な告白か。実は昔から的なアレか。おいおい困っちゃうよなと欣喜雀躍して開封。スコッ

「遭難情報、拡散希望。なんか知てたらおせーて」

 

昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ――。藤村の馬籠の宿はもう近かった。

ああ、もののあわれの拡散希望。あわれすぎるほどの自己と端末を山渓に投げ捨て、仰向けにて本懐を遂げようとするも、露命はまた今日も保たれてしまったようだ。