ひねくれて酒を断つ

本流は雪代に溢れ、傍流は代掻きで濁る。雪残る高き山には雪崩の危険があり、湯治場とて宿代を割り増しするのが黄金週間。昨今は野営場まで混雑必至と聞くが、肉焼くだけの幕営に興味はない。獣食った報いが怖いのではなく、ひねくれもせずに雑踏の中で過ごすのが厭なのだ。

今年も運悪く最大数が割り当てられた。早くも引き籠もり状態の我が方丈庵には、長編にルポルタージュ、随筆と詩句集を積み上げていたが、どうして書店で文庫本を買い足して帰宅するとネットで購入していた古本が投函されていた。十日あるとしてもこれは無理でしょう。だが、諸白や火酒を嘗めながら頁を捲ってみるとおおお、征ける気がしてきた。

酒精の効力は「書く」もまたしかり、知己友人らと語らうかのごとく筆が進む。しかし残念ながらそれは儚く頼りなく、堂々巡りは知らぬ間に。天の美禄である酒自体の美味さは別として、その酔いどれは傍から見てなんとも情けない。

肉焼いて焚き火に揺らいだ泪酒。といっても浮世の裏表を一つも映さずに飲み干されたのであれば、酒飲む他に何もないようにしか見えない。穿った見方かもしれないが、名利を塵にし、美女と焼き肉から昇る黒煙の向こうが幽かに見えると、いよいよ酒にも思うことがありまして。

『しらふで生きる 大酒飲みの決断』これをずっと読みたかった。けれどもすっげ恐かった。酒をやめようとするのを狂気とし、まったく正気ではない状態で始まった断酒記の、その「正しい」意識の構造が酒徒の心をキレキレの辛口酒のごとくズバッと切る。

体に不調はなく、健康診断の結果に不安があるわけでもない。そもそも私は週に二日ほど禁酒しているし、旅行中の駕籠酒なんかは別としても昼酒に溺れるようことは決してない。酔いどれの失態こそ数え切れぬが、太平楽を並べただけで大きな失敗とはならず、口論や喧嘩を引き起こしたこともない。フフ、論語の酒無量不及乱を心得ておる。が、何処難忘酒というのもあるなあ。

むしろ、酒そのものが好きすぎて。一般には流通していない酒造好適米どころか清酒酵母まで摘出、培養して本格的な密造酒を醸し、独り納戸の奥で発酵の全工程を調べるのだから。酒やめようなんて思うのが狂ってるって――。

夜通し読んだ長編『ひねくれ一茶』を閉じると、連続テレビ小説「芋たこなんきん」の再放送が始まっていた。錫のちろりが芳しい湯気を吐き、献酬を重ねさせたのは関東煮だけでなく夫婦のおしゃべりだった。これこれ!こういうのを見せられては酒、やめられないねぇとしみじみ思うも糟糠の妻、そんなのを娶った記憶はついぞなかったし、断酒記にも釘刺されていた。成功したとて女には持てぬと。

もはや、ひねくれる矛先が酒しか残っていないということだろうか。