面白いか面白くないか

原稿を送って後に添削と一応のアドバイスがあるまではよかった。しばらく考え込んで、編集者の反応が著しく薄いということに気が付いたときすでに洪水中。まるで災害にでも遭ったような面持ちで原稿を読み返しても面白いわけがない。誰の何と比べているのか知れないが見事に拙いのだ。でもその「拙さ」が成長を促す「唯一の希望」であるかのようにも思うのだからもう・・・・・・。

自炊した精進料理と二合の燗酒でテレビも点けず一人ぶつくさと。端から見ればアブナイ奴だが、意外とこれが考え方をまとめていることに最近気付いた。寂しくなったときはラジオを点けるが、ラジオは第二が面白いね。カルチャーラジオ文学の世界で放送されている「作家・町田康が語る私の文学史」。随分前の短編小説集の帯にあった「THIS IS PUNK」の稀有すぎる作家が明かしてくれた手の内は、北杜夫の『船乗りクプクプの冒険』だった。

与えられた宿題に辟易としていた主人公の苦難と成長をユーモアに描く、青少年向けの短い小説。その中でほんとうに伝えたいことを伝えるために用いたのがユーモア。それがまたすこぶる面白いから、ほんとうのことが効いてくる。

文化というものは便利ではあるが、あまりに勝手にすすみすぎると、人間はつい目標を見失ってしまうものだ。なんのために生きるか、幸福とはどういうことか、とかいうことをついに忘れてしまうものだ。

面白いか面白くないか、それだけで非常に大切で重要なことを書き残せるのかもしれない。昨年末に斎藤茂吉記念館を訪れていたが、家族コーナーの展示で北杜夫をすっ飛ばしてきたことを大いに反省す。

作家のベースにあったのは、いわゆる「反骨」だけのパンクではなかった。むしろ、西洋かぶれのセックスドラッグアンドロックンロールに非ず、センズリあんぱん河内音頭だという土俗的なリアリティーだった。近年ようやく民謡に行き着いたことでよくわかるが、ジャンル分けされたロックほど排他的なものはない。そして、ものまねの虚構に甘んじることこそパンクに非ず。ああできればこれを三十年前に知りたかった。

上手くなりたいなら、本を読む以外にありえないと作家はいう。それは食べた物と同じ。だとすれば、訳の分からん原稿を読まなければならない編集という仕事は、ああなんとも恐ろしい。