与格、それはきっとやってくる

サービスデーにだけパートタイムするクリーニング店のあのひとは、少し年上だろうか。午前中だけ勤務しているカフェの彼女もきっと年上のひとだろう。日々日常に生まれてくる感情を主格ではなく与格だと捉えれば、それが導きであるかのように思えるのだから不思議だ

いつしか若いに想うことがなくなった。自身が不惑なのだから、それが自然なのだろう。しかし、恋々とする気持ちは意外にも若い頃と変わらない。――どちらの店員も若干の中年太りであるのだが。

年末の休みに初めておせち料理を作った。伊達巻きはすり身から、昆布巻きも切り身を巻いて一から煮込んだ。田作り、黒豆、栗きんとんにはこんなに砂糖を入れるのねと、新しい発見がある。いや、発見が向こうからやってくる。何も変わらぬ日々日常にも、わずかばかりの成長がやってくる。――節分の恵方巻きには大失敗がやってきたが。

「人生は意味がないからこそ生きる価値がある」とは、誰の言葉だったか。書き留めた言葉でもすぐに忘れるのだから頭が悪い。それでもラジオは「絶望するところから始まる」と言っていたし、鑑賞した絵画には「深い穴の底から見上げると、空には真昼でも星が見える」とあった。

土石流で家族を奪われた方の記録がニュース番組で放送されていた。バンド時代にとても影響を受けた先達のご家族のようだったが、不条理な災害、事故事件に言葉を失うばかり。あまりにも世は無常で、信仰心があったとしても神を疑いかねないだろう。

自らの死を見ることはできない。死とは見せられることでしかなく、そこから何を受け取るか、その後にどうするかを他者の死によって問われる。痛みや悲しみの深さを知ることはできないが、たくさん想像を巡らせてその思いに触れることができたとしたら、応えは汲み取るような主格でなく与格、やはりやってくるのではないか。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

良寛禅師の言葉は無常の上に起つ。だから日々、最善を尽くして生きなければならない。

こんな私とて、知命までにと掲げた目標があった。湯巡り山登り、そして魚釣りとかいう、アレ――。なんともあれなそれなのだが、どうしようもないのは今に始まったわけではないとキッパリ。やってくるのは面白いことなのか、面白くないことなのか。最善を尽くして待とうと思う。