アナキズムを身近に

土地の特徴と治水について学ぶ地域防災の講座で、身近な湖の水位がかなりのマイナス値に設定されている意味を改めた。釣り人としては水位上昇を切に望むところだが、その設定値により湖の治水機能は格段と高まる。しかし、顕著になった異常気象にどれだけ耐えられるかを計算すると、心許ない結果になってしまった

これから始まる湖畔の築堤と田んぼダムなどの流域治水に期待するばかりだが、もちろん講師の「土手論」は生物の環境や景観を奪い損なうコンクリートや鋼矢板、またはダムなどのハード対策にあらず。河川を自然のまま曲げて流し、破堤しない強固な堤防を築くこと。そもそも洪水は必要な自然サイクルの一つであり、人間が自然を制御するなど到底不可能であると当たり前に立ち返る。

来年の「石木川カレンダー」が届いた。また一年が経過するが、どうしてダム建設を止められないのか。住民の声は一向に届かず、専門家の意見すら聞き入れられない。原発の再稼働もまるで同じく、もはやプルトニウムの製造が目的ではないのかと疑わせるばかり。国会は見事な茶番で政治は嘘ばっかりなのに、一体私たちは何を信じているのだろうか。

松村圭一郎著【くらしのアナキズム】なんとも穏やかで過激な題目の「アナキズム=無政府主義」は、自身とても馴染みあるパンクの基本思想であるが、ここで説かれるそれは何も大杉栄のようでなくて自発的な行動力、ひいては幻想に依拠しない本物の生活力を呼び起こす。

少し前に読んだ英国の社会学の本に、労働者階級の子どもたちは学校制度=システムに反抗するが、結局甘んじるようにシステム=労働へ順応してしまうとあった。社会学者の個人的な失望まで読み取れたが、ちょうど出始めた七十年代のパンク・ムーブメントには一縷の望みを抱いていた。

そうだ、♪Fight the system fight back——。英国ハードコアパンクの祖、DISCHARGEはそう叫んだではないか。

声を上げて、抗う。そこに希望がある。民主主義らしからぬ「多数決」により分断された少数意見が奪われて、殺されていいわけがない。正義が暴力を正当化するようなことがあってはならない。資本に山を奪われ、工業に川を汚され、人間までが産業に取り込まれることを容認する、そんな国家がどうして必要なのか。

詩人 山尾三省の【アニミズムという希望】には、「部族」と称されたアナキズムが信仰と芸術を伴った形で実践されていた。その反抗は革命に向かっていくのではなく、内に向かって問いを生み出し、それに応えて生きていくのだから、そのまま芸術となる。芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ——、理想のコミュニティを形成することは新興宗教を疑われてしまいそうだが、詩人の世界観は「地域すなわち地球、地球すなわち地域」。本物の宗教思想はその小ささを愛しむ(かなしむ)。

防災講座の最後で、講師は「ありがとう」の概念がない民族のことを引いた。自然と一体になれば、その恩恵を享受するに「ありがとう」は要らない。ほんとうの平等対等、そして自由はそこにあるのではないか——。

そんな途上国の、ましては民族のことなんて分からないと捨てる前に、たとえば柳田国男の遠野物語を再読したい。「平地人を戦慄せしめよ」と始まるその真意は怪談に慄けというのではなく、私たち日本人が持ち合わせていた自然観のこと。神道以前から見出してきたのは山川草木の神であり、そのまま信仰となって受け継がれてきた。だから日本人の根底も前述の民族と同じく、概念があったとしても、それはそのまま神に向けられていただけではなかったか。

ほんとうの日本人の幸福を生涯のテーマにした柳田国男は、開発などで否応なしに変わることを風景の成長として、積極的に認める態度を取った。ただし、肝心なことを忘れてしまっては、日本人の未来の幸福は壊れてしまう。

何が新しく生まれた美しさで 何が失われた大切なものか いつも考えること。

 

地域の防災を国任せにしないことも、またしかり。自分でやる、自分たちで保ち守る。主体的に行動し、意識を高めて備えることが肝要で、そういった自治能力が高まれば、開発の隙なども与えなくなるのではないだろうか。

くらしの中でも実践できるアナキズムは確かにある。